fc2ブログ

プロフィール

gongze

Author:gongze
FC2ブログへようこそ!
初めまして宮沢雅宏と申します。
中国の西安において馬賢達老師と
田春陽老師より中国伝統武術である
通備拳を学んでまいりました。
このブログには武術に関する理論やエッセイを掲載してまいります。

本格中国武術教室通備拳斬卸会、現在会員募集中です!
入会や講習会についてのご案内は通備拳斬卸会HPを御覧ください。

リンク

最新記事

twitter

こちらもよろしく

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

ランキングに参加中!

クリックよろしくお願いします(^O^)/。
にほんブログ村 格闘技ブログ 中国武術へ
にほんブログ村 にほんブログ村 格闘技ブログへ
にほんブログ村

フリーエリア

驚異の骨法不動打ち

喧嘩芸骨法というのをご存知でしょうか?まだグレイシーなどの今の総合格闘技スタイルが登場する前、今までの格闘競技とは一線を隔す路上の喧嘩を想定した武術としてプロレスファンや格闘技ファンに注目されていました。喧嘩では拳を痛めやすいから掌打を多用すること、金的蹴りを想定した狭いスタンスをとることなど確かに路上の喧嘩を想定するうえで理に適ったところもあったのではないかと思います。しかしこの骨法、奈良時代から一子相伝で伝わる秘拳と称したり当主である堀辺氏の経歴が胡散臭かったり奈良時代から伝わるのに技術内容がコロコロ変化したりと多分にインチキくさかったのも事実です。でも私は骨法のことを「喧嘩になったら強いんだろうな~」と漠然と思ってました。そんな骨法の凋落を決定づけたのはヴァーリトゥードと呼ばれる総合格闘技の試合に出場して惨敗したことです。それまでプロレスや格闘技の本に露出していた骨法は一気にフェードアウトし、私も「やっぱ骨法はインチキだったんだな~」と気にも留めなくなりました。しかし、最近youtubeで昔に堀辺氏が学研から出したらしい「骨法不動打ち」というビデオを見てしまいました。(違法視聴というやつくさいのでリンクは貼りません。興味のある方は自分で探してみてください。)私は衝撃を受けました、なぜならその内容は中国武術的に見てかなり高い完成度で体系化されていたからです。まずこの不動打ちは「手心」と呼ばれるお互いに攻撃と防御を途切れることなく繰り返すという練習から入ります。そしてこの手心の練習は通備拳に伝わる蟷螂九手の練習とほぼ同じものです。そして不動打ちとはまず相手の構えてる前手を抑えそこから相手の肘やもう一方の手を抑えて動きを封じ打撃を与えるというもので、蟷螂九手でもまず相手の末端である手に接触し次に肘を抑え最後に肩や胸などの攻撃ラインを取るという構造になっています。そしてこういった相対練習で覚えた技を限定試合と呼ばれる対抗性動作で身に付けていくそうです。この限定試合というのはある局面を切り取ってルール化し対抗性動作を行うというもので、まさにこれは中国武術の散手の発想です。
中国武術が本来有していたと思われる体系がこんな昔の骨法で実現していたとは驚くほかありません。
もしもの話ですが骨法がグレイシーの真似事などに走らず、あくまで路上の喧嘩を想定して独自の路線を行っていれば今とは違った未来があったのかもしれませんね。
スポンサーサイト



突きの威力を上げたければまずは蹴りを鍛えよ

八極拳は打撃の威力が強いことで知られていますが、他の人の動画の八極拳の表演を見ていると「あ、これは威力出ないよ」という感じのものを結構見ます。そういった八極拳では踏み込みが弱く水平方向への推進力が足りてないのです。
八極拳の威力は下半身から出てきます、ゆえにベンチプレス的なトレーニングをいくらやっても八極拳の威力は上がりません。
「練武まず腿力を求む」という言葉があります。八極拳の威力を上げたければまずは下半身を鍛える必要があります。
拳児では馬歩の状態で何分も耐えるということをやっていましたが、馬賢達老師がおっしゃるには「そういったトレーニングは股関節を固める癖がつくからあまり長い時間やるな、一分もできれば十分だ」とのことで、代わりに踢腿の訓練を徹底的にやらされました。
長拳基本功として有名な踢腿ですが通備のものはさらに胸を大きく開き股関節を可動域目いっぱい使って動かしていくのでかなりのハードさです。馬賢達老師によく注意されたのが「シーガイ(膝)!」で、蹴りの際には膝を完全伸展させることを徹底されました。この踢腿というのは蹴りの訓練だというのはもちろんですが実は歩法の訓練でもあって、踏み込みの強さを養うという意味もあります。
踏み込みの時に膝を完全伸展させてより遠くまで踏み込んだ方が強い突きが打てるというのは、ピッチングの時により遠くへ踏み込んだ方が速い球が投げられるというのと同じ原理です。
日本の八極拳修行者にはこの踢腿の訓練が不足している方が多いように見受けられます。それが地力の弱さにつながっているのではないでしょうか?結局のところ勁とはこの踢腿のようなしんどい練習をこなして身についた身法から生まれる力のことで、勁を発することが発勁です。
まさに修練の蓄積=功夫が無ければできない技術です。
くれぐれも「私が発勁を教えたところみんなあっさりと習得してしまって唖然としてしまった~」的な発言をする人には騙されないようにしましょう(^∇^)

ウソかホントか!?浸透勁


浸透勁というものの存在を知ったのは松田隆智先生の原作漫画「拳児」を読んでからです。
それによると浸透勁というのは体内に波紋を起こして表面を傷つけることなく内臓にダメージを与えてしまう打撃法のようです。
作品内では屈強な大男相手にしかも分厚い防具の上から浸透勁を放って一撃で倒していました。
果たしてそんなことができるのでしょうか?
まずこの浸透勁という用語、私は中国人の口から聞いたことがありません。また、中国で発刊されている武術系の大辞典にもそのような用語は無かったと思います。(もし見つけたときはぜひご一報ください!)
思うにこの浸透勁という語は拳児の八極拳の元となっている武壇八極拳内だけで使われているか、もしくは松田先生の造語なのではないでしょうか?
それはともかくこの浸透勁のようなことが本当にできるのか?私はできるかもしれないと考えています。
私は武術研究の一環として解剖学の本を読みこんだことがありますが、その本は実際の遺体を使ったもので内臓の位置関係が詳細にわかるようになっていました。そして私は心臓の位置は人体の前の方に位置していること、心臓は胸骨に付着しており胸骨には鎧となるような筋肉が付着してないことを知ったのです。
ですからたとえ防具をしていても、防具が胸部と密着するような位置関係にあれば心臓まで打撃の運動量を伝えることができるのではないかと思うのです。
以前、田春陽老師から習った暗打の手形に手をお椀状にして打つというものがありました。
暗打
普通の平手で胸を打ってもパシンとなるだけですが、この手形で胸を打つとズンと重く響き嫌な感触がします。
この世には運動エネルギー保存の法則がありますから打撃の運動エネルギーは防具をつけていようとその内部まで届く、
はずなのですがおおかたの運動エネルギーはぶつかったとき表面で拡散して減衰してしまいます。しかしこのお椀状の手形は当たったとき粘土のように変形して運動エネルギーをなるべく散らさないようにできます。
つまり正確に胸骨、そしてその先にある心臓を貫くようにこの手形を使って打撃を与えられれば、
丈夫な防具の上からでも相手の心臓を止めてしまうという現象を起こせるのではないか?それが浸透勁の正体なのではないか?
ということです。むかしの防具は今みたいに質の良い緩衝材はなかったでしょうしね。
ま、これらのことは所詮私の想像にすぎませんし、こればっかりは試すわけにいかないですからね。



套路を撮影するのは難しい

頭の中で思っていることと実際やるのではかなりの隔たりがあるものです。
普段私もyoutubeなどで他人が套路を演じる動画など見て「これなら俺のほうがうまくできるよ~」なんて思っちゃったりすることもあったりしますが、実際にカメラの前で演じるということは普段と勝手が違ってしまいます。
カメラで撮影されているという意識が無意識の緊張を呼ぶのでしょうか、套路をやっていると「あ、今の動作は良くなかった」とか「あ、今の動作間違えた」とかいったことのオンパレード、おまけに「あ、通行人が…」「あ、電柱が…」「あ、犬が…」などと思ってもいなかった邪魔が入ったりして撮影は中断、そのたびに気力と体力が擦り減ったりします。だから自分が頭の中で思い描いている100%理想の套路を演じるなんて不可能、7~8割できれば大成功というところでしょうか。
こんな時、空手バカ一代の一シーンが思い浮かびます。
主人公の大山倍達がFBIの隊員たちに空手を指導しているところ、倍達は隊員たちに3メートルはあろうかという高い位置に吊られたボールを飛び蹴りで蹴らせます。隊員たちは倍達に「こんな高い位置に頭のある人間がいるか」と不平を言いますが倍達は「へりくつ無用、普段5の練習をしていて本番で5の力が出せるものか、普段10の練習をするからこそ本番で5の力が出せるのだ」と言って隊員たちの不平を退けます。
いやはや、見せるという動きに特化している表演競技の方達、オリンピックの体操競技やフィギュアスケートの選手達、我々に見せている動きも十分凄いのですが普段の練習で理想としている動きはさらにものすごいのでしょうね。

散手競技への提言

初めに言っておきます。武術を競技化することは不可能です。
以前の記事にも書きましたが武術の戦いとは局面が推移するものです。競技化するということは局面を固定することですからその時点でもはや武術としては成り立たないものになります。しかし現在、特に日本の中国武術修行者には地力の弱さが目立ちます。地力とは対抗性動作の中で自在に体を操るための力であり、対抗性動作とはお互いに邪魔をし合うような動作、つまり柔道の乱取りのようなものを言います。なぜ地力が弱いかと言えば乱取りをやらないからにほかなりません。しかし乱取りのように競技化してしまうと武術性が失われる、ここに武術のジレンマがあります。かつて日本では中国武術修行者の地力を高めようと様々なルールの乱取り稽古が模索されました。だいたい多かったパターンは面をつけて打投極を認めたルール、大道塾という空手団体で採用されているようなルールでした。しかしこのルールで勝利するためには中国武術ではなく大道塾の技術を習得することが最も効率がよく、事実中国武術の大会にもかかわらず優勝するのは空手の選手ということがしょっちゅう起こっていました。結論から言えばこうした模索は失敗に終わったのではないかと思います。 なぜ失敗に終わったのか?私なりの結論を言いますと
単一ルールの下で優劣を競うような方式にしたからだと思います。武術の戦いというものは多局面にわたるものです。ならば武術的な地力を計るためには複数ルールの下でそれぞれの成績を総合して計るべきです。これはちょうど多変量解析の考え方に似てるでしょうか?多変量解析とはある一つの要素の値を決めるのは複数の要素の相関によるというものです。例を挙げれば家の値段というものは、築年数、駅までの距離、都心までの通勤時間、近所に学校や病院などのインフラがあるかなど、複数の要因の絡み合いによって決まるというものです。だから例えば中国武術の地力を計るならば、短兵、長兵、拳術、推手など複数のルールを設定しそれらの成績の総合値で測るべきだと思います。足りなければさらにルールを追加していきます。かつてこういった複数ルールでの試合を行った組織がありました。中央国術館と言うところです。その際、短兵、長兵、推手のルール設定はすんなりいったそうですが拳術のルール設定は難航したらしく結果的に大雑把で危険なルールを設定してしまい負傷者が続出したという話です。では拳術はどのようなルール設定をするべきか?それはまた後ほど書きます。とにかく何度も書きますが武術を競技化するのは不可能なのでやるなら複数ルールを設定してより多くの局面に対応できるかどうかの地力を見るべきでしょう。
これからの中国武術は地力がしっかりと計られるようになるべきです。

馬賢達老師と散手の思い出

馬賢達老師と言えば散手の名人として有名な方です。しかし、私が習っていた当時、私の先輩に当たる方たちが散手練習をしているのを見たことがありませんでした。当時の私は習い始めて間もないころだったし、もしかしたら相当レベルアップをしてからでないと散手を教えてはもらえないんじゃないかと思っていました。けれども、ある時思い切って馬賢達老師に散手を教えてほしいとお願いしてみたところ老師はあっさりとOKを出してくれました。私はうきうきしました、なぜなら今まで習った套路の技を実際にどう使うのかを知るときが来たと思ったからです。さて、馬賢達老師の散手の訓練とはどのようなものだったのか?それを語る前に通備拳の搌拳について説明しておきましょう。搌拳は柔らかく握った拳で突発的に相手の目を払う技で通備拳はまずこの搌拳を放って相手がひるんだところに技をかけるというのが基本となります。さて、私が一番最初に習った散手の技、それはこの搌拳を連発してそこに蹴りを付け加えるというものでした。その次は蹴りを放ちそこに展拳の連発を付け加えるというもの。

私は思いました。「おいおい、これじゃキックボクシングとかでやってるのと変わらないじゃん、あの套路練習は何だったんだよ」と。
しかし、今の私にはあの練習の意味が分かります。武術の技というのは突き詰めれば牽制の攻撃と本命の攻撃の使い分け、つまりワンツーに行きつくのです。つまり武術の技を使うためにはワンツーの動きを土台としてそこに付属品のように套路の技を付け加えていくのです。私が作った八極ワンツーもその考え方のもとに作られています。



もちろんワンツーと言ってもその体使いはボクシング的なものではなく武器術と互換性のある武術のものでなければなりません。

これでいいのか?八極拳

まずはこちらをご覧ください。


これは八極拳発祥の地である孟村で開催された格闘イベントの模様です。八極拳士たちとムエタイの選手たちが試合をしているとのことです。
しかし、御覧の通り八極拳を名乗る選手たちの動きには八極拳らしさは微塵もありません。ほとんどの選手が振りかぶって拳を振り回すような動きをしています。
八極拳とは槍の身法を基に創られた武術です。身体を開いて拳を振り回すような動きで槍を操るのは不可能です。
そこで私はこのような格闘試合の場で八極拳を使うにはどうすればいいか、その一例を示しました。
それがこちらの八極ワンツーです。



半身の体勢をとり体の中心から直線的に突きを出します。これで槍の体使いと一致した動きができます。
さらにワン、ツーごとに連続して踏み込みます。特にツーを打つ時の踏み込みは拳の打ち終わりの時まだ前足が浮いてるようにすることで拳に体当たりの威力を乗せることができます。このワンツーを使って相手の間合いの中に入り相手と接触、あとは八極拳の得意な接近戦に持ち込むのです。その様子は「グダグダの塩試合」もしくは「風雲ドスコイ拳」とでも形容したくなりますが知ったことではありません(^∇^)
とにかく八極拳は一度接触したら下がってはいけません。

武術と格闘技の違いとは?

ごく普通の人達にとっては武術も格闘技も同じようなものであろうと思います。
しかし両者には決定的な違いがあります。
武術と格闘技の違いについて、ある人は「武術とは格闘技で禁止されるようないかなる技も使えるものだ」と言い、
またある人は「武術の戦いは生きるか死ぬかの真剣勝負で格闘技のようにやり直しができるものではないのだ」と言ったりします。
しかし、そういった意見はいわば精神論的な観念を述べているにすぎず具体的に武術と格闘技がどう違うのかを述べているものではありません。
では具体的な武術と格闘技の違いとは何なのか?まずは格闘技とはどういうものであるのかを考えてみましょう。

当たり前のことですが格闘技には必ずルールブックというものが存在します。
そこには試合場の広さや試合時間、服装や反則行為などがきっちりと明記されています。
つまり格闘技は戦いの局面というものががっちりと固定されているわけです。

それに対して武術の戦いはどうでしょうか?
武術にはルールブックなどというものは存在しませんし、戦いの状況も常に一定ではありません。
一人だった相手が複数になったりアスファルトだった地面が砂利道になったり素手だった相手が武器を持ったりということが起こります。
つまり時間とともに局面が推移するわけです。
この局面の推移こそが格闘技と武術の決定的な違いなのです
さて、ここで一つ疑問が生まれます。格闘技ならば固定された局面だけを想定して戦術を組んだりトレーニングを設定することができますが、武術のように局面が推移してしまうのならばいったい何を想定して練習を積めばいいのでしょうか?
そこで高校時代に数学で習った論理集合の単元を思い出してみてください。A∩Bとか言うアレです。そんなの知らねーよという方は、まあこの記事は読み飛ばしてくれて問題ありません(^∇^)
様々な局面を集合とみなして記号で表現してみましょう、例えば相手が二人いる状況を局面A、相手が二人で武器を持っている状況を局面B、相手が三人で足場が砂利道の状況を局面C…などというように様々な局面を想定して記号で置き換える、
そしてA∩B∩C∩D∩…というように無限に∩集合を取っていく、すると最後に何が残るでしょうか?

答えは身体の使い方(身法、身体操作)です
どんな局面になろうとも身体の使い方だけは不変とすることができます。人間というものは意識の用い方によって様々なタイプの体使いをすることができますが、局面ごとに別個の体使いを行っていてははなはだ不合理です。そこで単一の体使いをもって様々な局面への対応をすること、これこそが武術の持つ仕組みなのです。例を挙げれば劈掛拳の場合、劈と掛という二つの動作が大元となって組み合わされることで様々な拳術の技を生み出す、と同時に剣や槍の操作も可能にします。つまり劈と掛の動作を複数の局面に対応させることができるわけです。よって武術の練習とは最初に大元となる動作を学び、それを複数局面へ応用変化させる経験をつむことで上達を促すものであると言えるでしょう。

| ホーム |


 BLOG TOP