プロフィール
Author:gongze
FC2ブログへようこそ!
初めまして宮沢雅宏と申します。
中国の西安において馬賢達老師と
田春陽老師より中国伝統武術である
通備拳を学んでまいりました。
このブログには武術に関する理論やエッセイを掲載してまいります。
本格中国武術教室通備拳斬卸会、現在会員募集中です!
入会や講習会についてのご案内は通備拳斬卸会HPを御覧ください。
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後件肯定の誤謬、または後件肯定の錯誤という言葉をご存知でしょうか?これは理論の確立などをするときに重要な概念です。
どういうものかと言いますと、PならばQである、Qである、だからPであるという考え方は間違いであるというものです。
何を言っているのかわからないですね、具体例を挙げましょう。例えばここに論文があったとします、この論文にはSTOP細胞なるものを作るための理論が書かれていますが果たしてその理論が正しいかどうかはわかりません、そこでその理論に従って実験をしたところSTOP細胞が作れてしまいました、だからこの論文に書かれた理論は正しい、と考えるのは間違いだというものです。なぜならその理論以外の要因でSTOP細胞が作られたという可能性を排除できていないからです。こういう錯誤的な言い回しは格闘技の世界にもあります。例えばAという格闘技のトレーナーがいたとします。Aは格闘技における画期的な理論を思いつき、それをBという格闘家に教えたとします。Bは格闘技の試合で見事に勝利、そこでAは「俺の理論のおかげだ」と声高に宣伝するのです。しかし、別にそんな理論など無くてもBは勝っていたかもしれないのです。
なぜこんな話をしたかというと武術の世界にはこうした錯誤的な言い回しがとても多いからです。例えばこの本。
この本の最後の方で、著者の生徒の一人が八極拳の突きでサンドバッグを突いたところサンドバッグを吊るす紐がちぎれてサンドバッグは吹っ飛んでいったというエピソードが書いてあります。著者はそのことを八極拳の突きは威力があるという根拠にしていますが、本当に八極拳の威力によるものなのかはわかりません。そもそも人力で切れるような紐でサンドバッグを吊るすことに問題を感じます。
こうした錯誤に陥らないよう冷静な分析力を備えることは武術修行をするうえで不可欠と言えるでしょう。
どういうものかと言いますと、PならばQである、Qである、だからPであるという考え方は間違いであるというものです。
何を言っているのかわからないですね、具体例を挙げましょう。例えばここに論文があったとします、この論文にはSTOP細胞なるものを作るための理論が書かれていますが果たしてその理論が正しいかどうかはわかりません、そこでその理論に従って実験をしたところSTOP細胞が作れてしまいました、だからこの論文に書かれた理論は正しい、と考えるのは間違いだというものです。なぜならその理論以外の要因でSTOP細胞が作られたという可能性を排除できていないからです。こういう錯誤的な言い回しは格闘技の世界にもあります。例えばAという格闘技のトレーナーがいたとします。Aは格闘技における画期的な理論を思いつき、それをBという格闘家に教えたとします。Bは格闘技の試合で見事に勝利、そこでAは「俺の理論のおかげだ」と声高に宣伝するのです。しかし、別にそんな理論など無くてもBは勝っていたかもしれないのです。
なぜこんな話をしたかというと武術の世界にはこうした錯誤的な言い回しがとても多いからです。例えばこの本。
この本の最後の方で、著者の生徒の一人が八極拳の突きでサンドバッグを突いたところサンドバッグを吊るす紐がちぎれてサンドバッグは吹っ飛んでいったというエピソードが書いてあります。著者はそのことを八極拳の突きは威力があるという根拠にしていますが、本当に八極拳の威力によるものなのかはわかりません。そもそも人力で切れるような紐でサンドバッグを吊るすことに問題を感じます。
こうした錯誤に陥らないよう冷静な分析力を備えることは武術修行をするうえで不可欠と言えるでしょう。
八極拳では震脚と呼ばれる地面を踏み鳴らすような歩法を多用します。人によってはこの震脚の際に膝を痛めてしまうことがあるそうで、だから八極拳は体に悪いような印象を持たれたりもするみたいです。しかし、八極拳をやって膝を痛めるなんてのは単にやり方が悪いだけです。そもそも震脚というものを足で地面を踏みつけるものだと思っている人が多いですが違います。
震脚は急激な重心の落下を足で支えた結果として起こってしまうものなのです。
要するに踏みつけているのではなく受け止めてると表現するのが近いかもですね。そして立ち方が円襠になっていること、これが大事です。
円襠とは股下をボールでも挟んでいるかのようにアーチ状にすることで、こうすることで地面からの衝撃をスムーズに下半身で吸収できます。もし膝を角ばらせて立っていたら、その角ばった膝に負荷が集中して膝を壊してしまうというわけですね。少し専門的に言うなら膝を微分可能な状態にしておくということです。
私などは円襠が出来てるおかげでガンガン震脚しても全然平気です、実は八極拳は体に良かったりします(^∇^)
器械的な筋力トレーニングとかやると体の各関節部に不自然な負荷を発生させてしまって、それで故障が多くなったりするんですよね~。スポーツ選手とかで一時はものすごく強かったのに年を取ったら膝や腰がボロボロで歩くのも難儀すると言った原因の一つがこれですね。やはりここにもスポーツと武術の違いがあって、武術の訓練は持続可能なものでなくてはならない、一時強くても後はポンコツじゃいかんのですよ。
そういう意味で八極拳は非常に理想的な「筋トレ」方法であると思いますね。
震脚は急激な重心の落下を足で支えた結果として起こってしまうものなのです。
要するに踏みつけているのではなく受け止めてると表現するのが近いかもですね。そして立ち方が円襠になっていること、これが大事です。
円襠とは股下をボールでも挟んでいるかのようにアーチ状にすることで、こうすることで地面からの衝撃をスムーズに下半身で吸収できます。もし膝を角ばらせて立っていたら、その角ばった膝に負荷が集中して膝を壊してしまうというわけですね。少し専門的に言うなら膝を微分可能な状態にしておくということです。
私などは円襠が出来てるおかげでガンガン震脚しても全然平気です、実は八極拳は体に良かったりします(^∇^)
器械的な筋力トレーニングとかやると体の各関節部に不自然な負荷を発生させてしまって、それで故障が多くなったりするんですよね~。スポーツ選手とかで一時はものすごく強かったのに年を取ったら膝や腰がボロボロで歩くのも難儀すると言った原因の一つがこれですね。やはりここにもスポーツと武術の違いがあって、武術の訓練は持続可能なものでなくてはならない、一時強くても後はポンコツじゃいかんのですよ。
そういう意味で八極拳は非常に理想的な「筋トレ」方法であると思いますね。
通備拳にはテキストらしいテキストがありません。かなり昔に通備十路弾腿のテキストは発売されたことはあって、私もそのコピーは持っていますが他にはテキストらしいテキストはありません。
まあこんな本もあったりしますが、
これはテキストというよりも通備拳の紹介本といった感じです。なんで開門八極拳というタイトルなのかよくわかりませんが馬家は八極拳においても宗家に当たるので馬家=八極拳と思われたのかもしれませんね。
さて、現在はネットで武術関係の資料はいくらでも探せますがネットがない時代に、それも通備拳の資料などそうそう手に入るものではありませんでした。そんな時に知ったのはあの拳児の原作者として有名な松田隆智先生が馬家の翻子拳を演じているビデオがあるということです。その名も戦士の詩。中国武術の世界では第一人者と言われていた松田先生が馬家の翻子拳を演じてるビデオがあるとは!と、私は見てみたくてたまらなくなりました。すると、当時馬賢達先生の下で習われていた私の先輩に当たる方の一人がそのビデオを持っていらっしゃったので私も見せていただきました。私は衝撃を受けました。とんでもない迫力だったからです。
そういえば馬賢達老師は翻子拳をやるときは気迫と勢いが何よりも重要だと仰っておられました。松田先生の翻子拳はまさに鬼神のごとき気迫と稲妻のごとき勢いで私を圧倒しました。その先輩によりますと松田先生は強いとか弱いとかそんな小さなことにはこだわらない、とても大きな人だとのことです。
そんな松田先生に少しでも近づこうとこの動画を作ってみました。少しは迫力が出てるでしょうか?
松田先生
まあこんな本もあったりしますが、
これはテキストというよりも通備拳の紹介本といった感じです。なんで開門八極拳というタイトルなのかよくわかりませんが馬家は八極拳においても宗家に当たるので馬家=八極拳と思われたのかもしれませんね。
さて、現在はネットで武術関係の資料はいくらでも探せますがネットがない時代に、それも通備拳の資料などそうそう手に入るものではありませんでした。そんな時に知ったのはあの拳児の原作者として有名な松田隆智先生が馬家の翻子拳を演じているビデオがあるということです。その名も戦士の詩。中国武術の世界では第一人者と言われていた松田先生が馬家の翻子拳を演じてるビデオがあるとは!と、私は見てみたくてたまらなくなりました。すると、当時馬賢達先生の下で習われていた私の先輩に当たる方の一人がそのビデオを持っていらっしゃったので私も見せていただきました。私は衝撃を受けました。とんでもない迫力だったからです。
そういえば馬賢達老師は翻子拳をやるときは気迫と勢いが何よりも重要だと仰っておられました。松田先生の翻子拳はまさに鬼神のごとき気迫と稲妻のごとき勢いで私を圧倒しました。その先輩によりますと松田先生は強いとか弱いとかそんな小さなことにはこだわらない、とても大きな人だとのことです。
そんな松田先生に少しでも近づこうとこの動画を作ってみました。少しは迫力が出てるでしょうか?
松田先生
現代に武術をやる意味があるかどうか、ハッキリと言ってしまえば特にありません。
武術をやるくらいならばプログラミングの一つも覚えたほうが良いと思う方も多いでしょう。もともと武術は民間の自衛手段もしくは軍事調練として発達したものですが近代の爆弾や機関銃が出てくるような戦いにおいて武術は無力です。なので武術をやる直接的な意味はないと言ってよいでしょう。ちょっとした護身術にはなるかもしれませんが。しかし世の中には直接何かの役に立つわけではないが我々の生活を支えているというものがいくらでもあります。例えば学校の勉強。まあ英語とか家庭科とかなら多少生活での出番もあるかもしれませんが数学とか歴史とか国語とか別に知らなくても生活上困ることはありません。けれどそれらが大事なものであるということは皆が知っていることです。なぜ大事かと言えば考え方の土台を作るからです。武術も同じで我々の知恵を育む文化の一つです。武術には昔の人が闘争の中で試行錯誤した身体知とでもいうべきものが詰まってます。例えば八極拳の順歩冲捶とか普通に生活してたら絶対に気づかない体の使い方で、私などは「昔の人はよくこんなもの思いついたな~」と感心するばかりです。こうした身体知に出会った時に私は感動を覚え、武術って面白いなと思うわけです。だから私は武術を続けてるわけですね。情報化社会の進展はこうした身体知を置き去りにしがちですが、しかし私はそうした身体知の欠如が社会的な閉塞感を生むのではないかとも考えます。身体の動きが固い人は意識も固くなりがちだと思うわけですね。他にも武術の魅力というのは到底ここだけで語りつくせるものではないですが、とにかく武術は面白いということですね。武術をやることを無意味だということは100メートルを9秒台で走る選手を捕まえて「そんなの車を使えばいいじゃん」というようなものでしょう。
武術をやるくらいならばプログラミングの一つも覚えたほうが良いと思う方も多いでしょう。もともと武術は民間の自衛手段もしくは軍事調練として発達したものですが近代の爆弾や機関銃が出てくるような戦いにおいて武術は無力です。なので武術をやる直接的な意味はないと言ってよいでしょう。ちょっとした護身術にはなるかもしれませんが。しかし世の中には直接何かの役に立つわけではないが我々の生活を支えているというものがいくらでもあります。例えば学校の勉強。まあ英語とか家庭科とかなら多少生活での出番もあるかもしれませんが数学とか歴史とか国語とか別に知らなくても生活上困ることはありません。けれどそれらが大事なものであるということは皆が知っていることです。なぜ大事かと言えば考え方の土台を作るからです。武術も同じで我々の知恵を育む文化の一つです。武術には昔の人が闘争の中で試行錯誤した身体知とでもいうべきものが詰まってます。例えば八極拳の順歩冲捶とか普通に生活してたら絶対に気づかない体の使い方で、私などは「昔の人はよくこんなもの思いついたな~」と感心するばかりです。こうした身体知に出会った時に私は感動を覚え、武術って面白いなと思うわけです。だから私は武術を続けてるわけですね。情報化社会の進展はこうした身体知を置き去りにしがちですが、しかし私はそうした身体知の欠如が社会的な閉塞感を生むのではないかとも考えます。身体の動きが固い人は意識も固くなりがちだと思うわけですね。他にも武術の魅力というのは到底ここだけで語りつくせるものではないですが、とにかく武術は面白いということですね。武術をやることを無意味だということは100メートルを9秒台で走る選手を捕まえて「そんなの車を使えばいいじゃん」というようなものでしょう。
李書文や郭雲深などの昔の達人には一撃で相手を打ち殺したという逸話が多く残っています。しかし本当に殺してしまったのかどうかははなはだ疑問符のつくところですが、まあそこは置いといてここでは一発で相手をKOできるのかどうかということを考えてみましょう。で、結論から言えば、できます。
いや別に不思議でも何でもなく格闘技の試合でもごくまれに起こってますね。で、そういうことが起こるのはだいたいが試合開始のゴングが鳴った直後あたり、一方が油断しているところにもう一方がダッシュで駆け込んで大技をかますといったパターンですね。
要するに奇襲、不意打ちです。逆に言えば、これ以外、相手を一撃で打ち倒すなどよっぽどの実力差が無ければ無理でしょう。
昔の達人がやったのもこういうことだったと思うんですよ。
試合をする相手がまだ試合が始まったのかどうか認識してないうちにすたすた近づいていく、で、相手の方が「おや?何だコイツ」みたいに頭に一瞬クエスチョンマークを浮かべる、その隙を見逃さず急所にドンと一撃を加える、という感じですね。
けれどこういうことができるのは日常動作から繰り出せる武術の突きならではですね、構えてから繰り出す格闘技的なパンチでは相手に悟られてうまくいかないでしょう。心理的隙をつくのも武術の立派な戦術の一つですが、そこにばかり傾倒すると地力の育たない軟弱拳士になってしまうので気を付けないといけないですね。
いや別に不思議でも何でもなく格闘技の試合でもごくまれに起こってますね。で、そういうことが起こるのはだいたいが試合開始のゴングが鳴った直後あたり、一方が油断しているところにもう一方がダッシュで駆け込んで大技をかますといったパターンですね。
要するに奇襲、不意打ちです。逆に言えば、これ以外、相手を一撃で打ち倒すなどよっぽどの実力差が無ければ無理でしょう。
昔の達人がやったのもこういうことだったと思うんですよ。
試合をする相手がまだ試合が始まったのかどうか認識してないうちにすたすた近づいていく、で、相手の方が「おや?何だコイツ」みたいに頭に一瞬クエスチョンマークを浮かべる、その隙を見逃さず急所にドンと一撃を加える、という感じですね。
けれどこういうことができるのは日常動作から繰り出せる武術の突きならではですね、構えてから繰り出す格闘技的なパンチでは相手に悟られてうまくいかないでしょう。心理的隙をつくのも武術の立派な戦術の一つですが、そこにばかり傾倒すると地力の育たない軟弱拳士になってしまうので気を付けないといけないですね。
突然ですがこの方をご存知でしょうか?
近所の図書館にこの方の本が置いてあって存在を知ったのですが、いや~面白い方ですね。
何が面白いってまったく知識がないことを題材にして本が書けてしまうというところですね。あ、日本武術のことまでは判別できませんが少なくとも中国武術については馬歩も弓歩もご存知ないようです。で、なんでいきなりこんなブツを出したかというとこの方のおかげで存在を知った漫画があるからです。それはツダヌマ格闘街と言います。
白状しますと私は「気分転換になるかな~」と面白がって長野氏のブログを読んでいたのですが、長野氏がやたら絶賛していた漫画がこのツダヌマ格闘街だったのです。ちょっと気になったので近所のブックオフで見つけてパラパラと読んでみました。ストーリーは突然やってきたメイドが実は武術の達人でこのメイドを師匠にして格闘大会を勝ち抜いていくという一瞬脳みそが凍り付くようなものです。
しかし、武術の描写については非常に丁寧に調査をしているようで好感が持てました。
このツダヌマ格闘街の六巻に推拉(トゥイラー)競技についての説明が出てきます。
推拉(トゥイラー)競技は中国武術の推手に似た競技でお互いに搭手と呼ばれる状態から腕を引いたり胴体を押したりして先に足が動いたり地面に手を着いたほうが負けというものです。安全でかつ中国武術の地力を計るのに絶好のルールで私が常々提唱している地力の計量システムの一つとして加えたいなと思っているものです。私もやったことがありますがなかなか奥が深く、戦略的要素が大きいです。このルールならば体重70キロそこそこの私が体重100キロ近い柔道経験者に勝ったりもしますので、あまり体格差に左右されない良いルールだと思います。
この推拉(トゥイラー)競技、もっと広まってもいいと思うのですが、そうなると今まで実力者だと思われていた中国武術の先生たちが実は地力が無かったということがばれてまずいのかもしれませんね。
近所の図書館にこの方の本が置いてあって存在を知ったのですが、いや~面白い方ですね。
何が面白いってまったく知識がないことを題材にして本が書けてしまうというところですね。あ、日本武術のことまでは判別できませんが少なくとも中国武術については馬歩も弓歩もご存知ないようです。で、なんでいきなりこんなブツを出したかというとこの方のおかげで存在を知った漫画があるからです。それはツダヌマ格闘街と言います。
白状しますと私は「気分転換になるかな~」と面白がって長野氏のブログを読んでいたのですが、長野氏がやたら絶賛していた漫画がこのツダヌマ格闘街だったのです。ちょっと気になったので近所のブックオフで見つけてパラパラと読んでみました。ストーリーは突然やってきたメイドが実は武術の達人でこのメイドを師匠にして格闘大会を勝ち抜いていくという一瞬脳みそが凍り付くようなものです。
しかし、武術の描写については非常に丁寧に調査をしているようで好感が持てました。
このツダヌマ格闘街の六巻に推拉(トゥイラー)競技についての説明が出てきます。
推拉(トゥイラー)競技は中国武術の推手に似た競技でお互いに搭手と呼ばれる状態から腕を引いたり胴体を押したりして先に足が動いたり地面に手を着いたほうが負けというものです。安全でかつ中国武術の地力を計るのに絶好のルールで私が常々提唱している地力の計量システムの一つとして加えたいなと思っているものです。私もやったことがありますがなかなか奥が深く、戦略的要素が大きいです。このルールならば体重70キロそこそこの私が体重100キロ近い柔道経験者に勝ったりもしますので、あまり体格差に左右されない良いルールだと思います。
この推拉(トゥイラー)競技、もっと広まってもいいと思うのですが、そうなると今まで実力者だと思われていた中国武術の先生たちが実は地力が無かったということがばれてまずいのかもしれませんね。
居合とか抜刀術というのは漫画の「るろうに剣心」がヒットしてそれで一時人気が出たことがありましたね。まあもっとも、あの漫画の居合はバットスィングのごとく刀を振り回して抜いてるので、あんなことしたら刀が鞘につっかえてとても危険ですからやってはだめですよ~。
けどなんか刀をズバッと一瞬で抜くのはかっこいいなあみたいな気持ちはあったんですよね。そんな時古本屋でたまたま見つけたのがこれ。
何だまた漫画かよ~と思うかもしれませんが、この漫画かなり技術的に詳細な描写があって通常のチャンバラ漫画とは確実に一線を隔してます。でまあ、この漫画に居合をテーマにした話があってそこで居合について技術的な描写がされていたわけです。
それによると高速の居合術を成し遂げるためには、刀の鍔を正中線上に置いて相手に対しほぼ直線的に最短距離で抜くこと、
その際「一文字腰」と呼ばれる上から見たときに両腕、両肩、腰が一直線に並ぶような姿勢を取ること、が必要だということなんですね。
これを読んで私はピーンときたわけです。「これって通備八極拳の順歩冲捶でできるんじゃね?」と。
そこで私はリサイクルショップでこれまたたまたま売ってた居合練習用模擬刀を4000円で購入、さっそく試してみました。
私の予想はビンゴでした。帯に差した刀がズバッと気持ちよく抜けます。斬り下ろしや斬り上げも試してみましたが何の問題もなくズバズバ抜けますね。漫画と同じように体捌きとともに抜くということもできます。
私は感動しました。日本刀という日本文化を象徴するような道具を中国武術を代表する通備拳の体使いで扱えるのですからね。
この通備抜刀術の面白さ、ぜひ広めていきたいものです。
けどなんか刀をズバッと一瞬で抜くのはかっこいいなあみたいな気持ちはあったんですよね。そんな時古本屋でたまたま見つけたのがこれ。
何だまた漫画かよ~と思うかもしれませんが、この漫画かなり技術的に詳細な描写があって通常のチャンバラ漫画とは確実に一線を隔してます。でまあ、この漫画に居合をテーマにした話があってそこで居合について技術的な描写がされていたわけです。
それによると高速の居合術を成し遂げるためには、刀の鍔を正中線上に置いて相手に対しほぼ直線的に最短距離で抜くこと、
その際「一文字腰」と呼ばれる上から見たときに両腕、両肩、腰が一直線に並ぶような姿勢を取ること、が必要だということなんですね。
これを読んで私はピーンときたわけです。「これって通備八極拳の順歩冲捶でできるんじゃね?」と。
そこで私はリサイクルショップでこれまたたまたま売ってた居合練習用模擬刀を4000円で購入、さっそく試してみました。
私の予想はビンゴでした。帯に差した刀がズバッと気持ちよく抜けます。斬り下ろしや斬り上げも試してみましたが何の問題もなくズバズバ抜けますね。漫画と同じように体捌きとともに抜くということもできます。
私は感動しました。日本刀という日本文化を象徴するような道具を中国武術を代表する通備拳の体使いで扱えるのですからね。
この通備抜刀術の面白さ、ぜひ広めていきたいものです。
呉陳比武とは1954年にマカオで行われた太極拳の呉公儀と白鶴拳の陳克夫による公開試合のことです。
youtubeに動画があげられて一時期ネットでもちょっとした話題になってたと思います。見た人の感想はだいたいが「子供の喧嘩」「カンフーの化けの皮がはがれた」といった嘲笑のネタ的なものが多かったと思います。しかしこの試合、そんなにひどいのでしょうか?私なりに考えてみました。
まず試合を見てすぐに見て取れるのが二人ともジャブを打たないということです。
現代の格闘技においてはまずジャブなどの牽制の攻撃を放ち相手の出方を見て、隙があれば間合いに入っていくというのが常識となっています。しかし二人とも牽制も何もなくいきなりぶん殴りに行ってますね、実に男らしいです。第二に分かるのはステップワークがないことです。例えばボクシングなどでは爪先を使って跳ねるように移動して切り返しの動きを速くする、構えが入れ替わらないよう半歩で足を進める、というのが当然の動きになってますが、二人とも通常の歩み足で普通に移動してます。陳克夫にいたっては背中を見せて逃げだすような場面が数度見られます。まあこんなところがこの試合が酷評を受ける原因なのではないでしょうか?
しかしそういった評価はあくまでも現代格闘技的な視点によるものです。1954年と言えば毛沢東が新中国樹立を宣言してから5年、まだまだ街には諍いの種が多かったのではないかと思います。呉公儀も陳克夫もそんな時代に路上の喧嘩を経験することはいくらでもあったのではないでしょうか?試合のように時間で区切られた闘いの場合、ペース配分というものが戦術上大きな意味を持ちます。しかし路上の喧嘩にペース配分など存在しません。またリングのように空間で区切られた場所で闘う場合、その空間の広さを有効に使えるよう動き回ることが戦術上大きな意味を持ちます。しかし路上の喧嘩にリングは存在しません。それどころか審判もいないので背中を見せて逃げ出したところで判定決着のポイントが悪くなると言ったこともありません。
要するに二人とも現在のリング格闘競技のようなものを想定した練習はやってこなかったのです。当たり前です。
突発的な路上の喧嘩にジャブもステップワークも不要でしょう、それどころか逃げるという選択肢もありなのです。
二人ともそんな路上の喧嘩を想定して動いた結果あのような試合になったのではないかと思います。
結局のところ物事というのは一面的に評価するのではなく、時代背景や違った状況で闘ってたらどうだったかなど多面的な分析をしなければならないということですね。
youtubeに動画があげられて一時期ネットでもちょっとした話題になってたと思います。見た人の感想はだいたいが「子供の喧嘩」「カンフーの化けの皮がはがれた」といった嘲笑のネタ的なものが多かったと思います。しかしこの試合、そんなにひどいのでしょうか?私なりに考えてみました。
まず試合を見てすぐに見て取れるのが二人ともジャブを打たないということです。
現代の格闘技においてはまずジャブなどの牽制の攻撃を放ち相手の出方を見て、隙があれば間合いに入っていくというのが常識となっています。しかし二人とも牽制も何もなくいきなりぶん殴りに行ってますね、実に男らしいです。第二に分かるのはステップワークがないことです。例えばボクシングなどでは爪先を使って跳ねるように移動して切り返しの動きを速くする、構えが入れ替わらないよう半歩で足を進める、というのが当然の動きになってますが、二人とも通常の歩み足で普通に移動してます。陳克夫にいたっては背中を見せて逃げだすような場面が数度見られます。まあこんなところがこの試合が酷評を受ける原因なのではないでしょうか?
しかしそういった評価はあくまでも現代格闘技的な視点によるものです。1954年と言えば毛沢東が新中国樹立を宣言してから5年、まだまだ街には諍いの種が多かったのではないかと思います。呉公儀も陳克夫もそんな時代に路上の喧嘩を経験することはいくらでもあったのではないでしょうか?試合のように時間で区切られた闘いの場合、ペース配分というものが戦術上大きな意味を持ちます。しかし路上の喧嘩にペース配分など存在しません。またリングのように空間で区切られた場所で闘う場合、その空間の広さを有効に使えるよう動き回ることが戦術上大きな意味を持ちます。しかし路上の喧嘩にリングは存在しません。それどころか審判もいないので背中を見せて逃げ出したところで判定決着のポイントが悪くなると言ったこともありません。
要するに二人とも現在のリング格闘競技のようなものを想定した練習はやってこなかったのです。当たり前です。
突発的な路上の喧嘩にジャブもステップワークも不要でしょう、それどころか逃げるという選択肢もありなのです。
二人ともそんな路上の喧嘩を想定して動いた結果あのような試合になったのではないかと思います。
結局のところ物事というのは一面的に評価するのではなく、時代背景や違った状況で闘ってたらどうだったかなど多面的な分析をしなければならないということですね。
中国武術修行者に多いのですが、自分は~という大名人に拝師したとか~代掌門人になったとか秘伝を授けられたとか、そんなことをことさら誇らしげに語る人がいたりします。どうも日本武術にも多そうですね。そういった肩書はもちろんあってもいいと思います。しかし問題なのは実力です。
ローキック一発でKOされる掌門人とか困るわけですよ。
ご存知の通り中国武術には地力をきっちり計るようなシステムが存在しません。ですから形だけ、套路だけ受け継いでその内容が実際どういうものかについて考えることもなく伝承者になってしまう、そういったケースが非常に多いです。競い合うという意識がないから問題意識も生まれないわけですね。ですから中国武術修業者の地力はなかなか発達しないわけです。中には問題意識をもって散手に取り組もうとする人たちもいますが、今度は「何が自分の中心であるか?」という意識が抜け落ちてしまって、
他の格闘競技の動きを無理やり中国武術の技にこじつけるという事例が後を絶ちません。
中国武術において拳術は剣棍刀槍の兵器術との互換性が無ければならないということを常に中心に据えて見失わないようにしなければなりません。
私の夢であり希望は中国武術の世界にきっちりとした地力の計量システムを浸透させること、それは他格闘競技の人に優勝をさらわれてしまうものではなく中国武術の修行で地力をつけた人がきちんと勝ち進めるものであること、ですね。
ローキック一発でKOされる掌門人とか困るわけですよ。
ご存知の通り中国武術には地力をきっちり計るようなシステムが存在しません。ですから形だけ、套路だけ受け継いでその内容が実際どういうものかについて考えることもなく伝承者になってしまう、そういったケースが非常に多いです。競い合うという意識がないから問題意識も生まれないわけですね。ですから中国武術修業者の地力はなかなか発達しないわけです。中には問題意識をもって散手に取り組もうとする人たちもいますが、今度は「何が自分の中心であるか?」という意識が抜け落ちてしまって、
他の格闘競技の動きを無理やり中国武術の技にこじつけるという事例が後を絶ちません。
中国武術において拳術は剣棍刀槍の兵器術との互換性が無ければならないということを常に中心に据えて見失わないようにしなければなりません。
私の夢であり希望は中国武術の世界にきっちりとした地力の計量システムを浸透させること、それは他格闘競技の人に優勝をさらわれてしまうものではなく中国武術の修行で地力をつけた人がきちんと勝ち進めるものであること、ですね。
斬卸拳は私が劈掛拳を基にして作り出した新しい武術です。
劈掛拳においては大きく斬り下ろす動作を「劈」と呼び、大きく斬り上げる動作を「掛」と呼びました。
これに対応して直線的に斬り下ろす動作を「斬」と呼び、直線的に斬り上げる動作を「卸」と呼びます。
斬卸拳とはこの「斬卸」の動作を組み合わせて技を繰り出すというものです。
さて、こう書くと多少中国武術に詳しい人ならば「それって通背拳(もしくは通臂拳)と同じなんじゃないの?」と思うかもしれません。
たしかに劈掛も通背も通臂もかつては同じ武術で「通臂」と呼ばれていたらしいです。そして、そこから分かれて大通臂として劈掛拳が生まれ、小通臂として通臂拳または通背拳が生まれたと言われます。ですから劈掛拳をコンパクトにした斬卸拳は通背拳もしくは通臂拳と同じものなのではないかと思われるかもしれません。
ですがハッキリと申し上げて違います。
具体的に言えば体重の乗せ方が違うのです。
斬卸拳は劈掛拳の体使いを援用したものなのでその打撃フォームはピッチングフォームのごとく踏み込んだ前足に体重をかけ切ります。私が知る限り通背拳や通臂拳で前足に体重をかけ切る訓練をしているのを見たことがないです。(見たことがあるという方是非ご一報を!)
たとえあったとしてもそれだけ目立たない割合でしか存在しないということです。
現在の格闘シーンにおいて前足荷重は必須の要素と考えます。21世紀型の格闘シーンを想定して生み出されたのが斬卸拳なのです。
拳を保護するために掌を多用するのは喧嘩芸骨法にちょっと似てますかね~、体使いは全く違いますが。
劈掛拳においては大きく斬り下ろす動作を「劈」と呼び、大きく斬り上げる動作を「掛」と呼びました。
これに対応して直線的に斬り下ろす動作を「斬」と呼び、直線的に斬り上げる動作を「卸」と呼びます。
斬卸拳とはこの「斬卸」の動作を組み合わせて技を繰り出すというものです。
さて、こう書くと多少中国武術に詳しい人ならば「それって通背拳(もしくは通臂拳)と同じなんじゃないの?」と思うかもしれません。
たしかに劈掛も通背も通臂もかつては同じ武術で「通臂」と呼ばれていたらしいです。そして、そこから分かれて大通臂として劈掛拳が生まれ、小通臂として通臂拳または通背拳が生まれたと言われます。ですから劈掛拳をコンパクトにした斬卸拳は通背拳もしくは通臂拳と同じものなのではないかと思われるかもしれません。
ですがハッキリと申し上げて違います。
具体的に言えば体重の乗せ方が違うのです。
斬卸拳は劈掛拳の体使いを援用したものなのでその打撃フォームはピッチングフォームのごとく踏み込んだ前足に体重をかけ切ります。私が知る限り通背拳や通臂拳で前足に体重をかけ切る訓練をしているのを見たことがないです。(見たことがあるという方是非ご一報を!)
たとえあったとしてもそれだけ目立たない割合でしか存在しないということです。
現在の格闘シーンにおいて前足荷重は必須の要素と考えます。21世紀型の格闘シーンを想定して生み出されたのが斬卸拳なのです。
拳を保護するために掌を多用するのは喧嘩芸骨法にちょっと似てますかね~、体使いは全く違いますが。
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