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Author:gongze
FC2ブログへようこそ!
初めまして宮沢雅宏と申します。
中国の西安において馬賢達老師と
田春陽老師より中国伝統武術である
通備拳を学んでまいりました。
このブログには武術に関する理論やエッセイを掲載してまいります。
本格中国武術教室通備拳斬卸会、現在会員募集中です!
入会や講習会についてのご案内は通備拳斬卸会HPを御覧ください。
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武術と、例えばボクシングのような格闘技との違いをよく表している代表的なものとして、突きとパンチのスタイルの違いがあると思います。
大抵の場合、武術においては突きは腰から直線的に打ち出すのが普通ではないかと思います。それに対してボクシングなどの格闘技におけるパンチは顔の横あたりから打ち出すのが普通です。さて、このような違いはなぜ生まれるのでしょうか?
答えを言ってしまえば、武術は武器術がもとになったものであり、格闘技には武器術の概念がないからであると言えます。
武器とはいっても、ここで言う武器とは剣棍刀槍のような長い棒のような形状をもったものを指します。実際にやってみればわかることですが長い棒を使って対象を突く場合、腰から突きだしたときが一番力が乗ります。

つまり武術における突きの動きとは長い棒で相手を突く動作を素手で行っていると言えるわけです。この点だけを考えても武術の動作が武器術から発生しているということが分かるでしょう。
対して格闘技の様に顔の横からパンチを打つ動作で長い棒を使った突きが可能でしょうか?

試すまでもなくアホらしいということが分かると思います。ボクシングなどのパンチの動きは両拳を思う存分振り回すのに向いた動きではありますが、棒で突くという動きには向きません。(もしかしたら投げ槍には向いた動きかもしれませんが)
かつて中国武術の散打試合がいろいろと考案されてきましたが、結局のところそのすべてが失敗しました。例え肩書は~拳と名乗っていても実際に打ちあうとどれもこれも稚拙なキックもどきになってしまうのです。その原因はルール設定をする人たちに武器術の概念が無かったからだと私は考えています。
単純に考えて殴り合いだけを考えた場合、~拳の~の技みたいな形をとろうとするよりも、何も考えず両拳をブンブン振り回すほうが断然有利です。このことが格闘家対武術家の試合的なものが行われた際に武術家側がコテンパンにやられてしまう原因にもなっています。
この話をすると思い出すのが、かつて私が読んだ「マス大山の正拳一撃」という本のことです。
この本はマス大山こと極真空手の大山倍達氏が読者からの質問に答えるという内容のものですが、その質問の中に「なぜ極真空手の選手たちは極真の大会で空手の正拳突きを使わないのですか?空手の正拳は腰からひねり出しながら打つものなのに、極真の選手たちは肩から叩くような動作をしています」というものがありました。その質問に対して大山氏は「いや、極真の選手たちは空手の正拳を使っている。よ~く見ればたとえわずかであろうとひねりながら打ち出しているんだよ」と答えていたのが印象に残っています。当時読んだ時の私は「ふ~んそーなんだ」くらいにしか感じませんでしたが、今考えるとあまりにも無茶苦茶な言い訳だなと思います。要するにいわゆる極真ルールというものも空手の理念を体現するものではなかったのではないでしょうか?おそらく空手の正拳も武器を腰から打ち出す動作がもとになっていると思うのですが、伝統的な空手を長年教えている先生でも空手の突きとボクシングのパンチでなぜこのような違いが出るのかを答えられない人が多いという話を聞いたことがあります。
武術と格闘技の違いを認識するためにはもしかしたらパズル的なセンスが必要なのかもしれません。突き詰めて考えていきましょう。
大抵の場合、武術においては突きは腰から直線的に打ち出すのが普通ではないかと思います。それに対してボクシングなどの格闘技におけるパンチは顔の横あたりから打ち出すのが普通です。さて、このような違いはなぜ生まれるのでしょうか?
答えを言ってしまえば、武術は武器術がもとになったものであり、格闘技には武器術の概念がないからであると言えます。
武器とはいっても、ここで言う武器とは剣棍刀槍のような長い棒のような形状をもったものを指します。実際にやってみればわかることですが長い棒を使って対象を突く場合、腰から突きだしたときが一番力が乗ります。

つまり武術における突きの動きとは長い棒で相手を突く動作を素手で行っていると言えるわけです。この点だけを考えても武術の動作が武器術から発生しているということが分かるでしょう。
対して格闘技の様に顔の横からパンチを打つ動作で長い棒を使った突きが可能でしょうか?

試すまでもなくアホらしいということが分かると思います。ボクシングなどのパンチの動きは両拳を思う存分振り回すのに向いた動きではありますが、棒で突くという動きには向きません。(もしかしたら投げ槍には向いた動きかもしれませんが)
かつて中国武術の散打試合がいろいろと考案されてきましたが、結局のところそのすべてが失敗しました。例え肩書は~拳と名乗っていても実際に打ちあうとどれもこれも稚拙なキックもどきになってしまうのです。その原因はルール設定をする人たちに武器術の概念が無かったからだと私は考えています。
単純に考えて殴り合いだけを考えた場合、~拳の~の技みたいな形をとろうとするよりも、何も考えず両拳をブンブン振り回すほうが断然有利です。このことが格闘家対武術家の試合的なものが行われた際に武術家側がコテンパンにやられてしまう原因にもなっています。
この話をすると思い出すのが、かつて私が読んだ「マス大山の正拳一撃」という本のことです。
この本はマス大山こと極真空手の大山倍達氏が読者からの質問に答えるという内容のものですが、その質問の中に「なぜ極真空手の選手たちは極真の大会で空手の正拳突きを使わないのですか?空手の正拳は腰からひねり出しながら打つものなのに、極真の選手たちは肩から叩くような動作をしています」というものがありました。その質問に対して大山氏は「いや、極真の選手たちは空手の正拳を使っている。よ~く見ればたとえわずかであろうとひねりながら打ち出しているんだよ」と答えていたのが印象に残っています。当時読んだ時の私は「ふ~んそーなんだ」くらいにしか感じませんでしたが、今考えるとあまりにも無茶苦茶な言い訳だなと思います。要するにいわゆる極真ルールというものも空手の理念を体現するものではなかったのではないでしょうか?おそらく空手の正拳も武器を腰から打ち出す動作がもとになっていると思うのですが、伝統的な空手を長年教えている先生でも空手の突きとボクシングのパンチでなぜこのような違いが出るのかを答えられない人が多いという話を聞いたことがあります。
武術と格闘技の違いを認識するためにはもしかしたらパズル的なセンスが必要なのかもしれません。突き詰めて考えていきましょう。
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松田隆智先生が原作を担当した漫画である「拳児」は八極拳の普及において多大な功績を残しました。そこで私も松田先生に倣って八極拳をテーマとした創作小説を書いてみました。松田先生が生み出した拳児とは似ても似つかぬもう一つのケンジの物語をどうぞご覧ください。ちなみに小説内で使われる武術の技は実際の武術の技とは完全に無関係です。当然小説内の登場人物や事件も完全なフィクションです。
オリジナル小説
八極地獄拳
―――もう一つのケンジ―――
第一話 極悪非道!謎の組織
キキ――ッ
甲高いブレーキ音とともに大型トラックが施設の前に到着した。
ここは中国の内陸部、詳しい場所は分からないが周りは見渡す限り砂漠である。
「よし、入れ」
門衛のチェックが終わると巨大な扉がゴオオという音をたてながら開かれていった。
トラックはその中へとゆっくりと入っていく。
そのまま進んでいくと広大な中庭へ出て、トラックはそこで停車した。正面には要塞のようにそびえる建物が見える。左右には倉庫らしきもの、そして見張り台がある。
トラックの周りに数名の男たちが駆け寄ってきた。皆軍服のような制服に身を包んでいる。
「ようし出て来い」
男たちの一人が荷台の扉を開けた。中には大勢の子供たちがいた、それも皆少年たちだ。
「とっとと出てこねえか!出たらそこに並べ」
男たちの怒声が響く。少年たちは皆一様に怯えた表情だ。自分たちがなぜこんな目に合わなければいけないのか皆目見当もつかないという顔をしている。
「いいか?今日からお前らはここで暮らすことになるんだ。お前らは皆親に捨てられたか、もしくは二束三文で売られた奴らばかりだ。本来だったらゴミとなんの変りもねえんだがそれを俺たちが引き取って面倒見てやろうというんだ、ありがたく思え」
ここに集められた少年の多くは、親に捨てられたり売られたりしたものばかりだった。それだけでなく紛争で親を失ったもの、普通の暮らしをしていたのに誘拐され売られたものまでも混じっている。
そういった少年たちの中にケンジはいた。
彼の名は竹畑賢治、この物語の主人公のケンジである。
「くそ、どこなんだよここ?なんで俺がこんな目に?」
ケンジは途方に暮れていた。
ケンジは中学生である、しかし頭の方はあまりよろしくはなく分数の足し算ができない。かろうじて九九は覚えているので運が良ければ分数の掛け算には正解することもある。しかし通分というものができないので分数の足し算や引き算は壊滅的だった。
スポーツもそれほど得意というわけではないが、なぜかマラソンだけは速かった。小遣い欲しさに神社を見つけては賽銭泥棒を繰り返していたので逃げ足だけは鍛えられていたのだろう。
その日もケンジは隣のさらにその隣の町までくりだして賽銭泥棒を働いていた。
賽銭をちょろまかしてダッシュで逃げるケンジの横に黒塗りのワゴン車がつき、ケンジを車内に引きずり込んだ。そこでケンジの記憶は途切れたのである。
気がつけばトラックの中、そして今はこんな状況だというわけだ。
「よし移動するぞ、もたもたすんじゃねえ!とっとと歩きやがれ!」
ケンジたちは正面の巨大な建物の中へと歩かされていった。中はまるで刑務所のようである。非常に頑健そうなつくりだった。そのまま地下へと移動させられる。そこは学校の体育館ぐらいの広さがある部屋だった。
ガシャン
ケンジたちが全員入りきったところで入り口に分厚い鉄格子が下りてきた。
閉じ込められたのである。もう誰も逃げられない。
いったいこれからどうなってしまうのか?不安で気が気でないケンジだったが、その時隣にいた少年がケンジに声をかけてきた。
「そんな心配するなよ、大丈夫!逃げられるチャンスは必ずあるって。」
そんな言葉は慰めにもならないよ、とケンジは思った。しかし不安の絶頂の中にあったケンジにとってやはり優しい言葉はいくらか気が晴れるものであった。たとえわずかな希望であろうと今は信じて耐えるしかない。
声をかけてきた少年の名はヒロシ、彼もまた誘拐されてここに連れてこられたとのことだった。ヒロシは中学生で少し太めの体形をしている。食べることに異様な執念を燃やす彼は誘拐された日もスーパーというスーパーを渡り歩いては試食コーナーで試食品を食い漁っていた。そんなことをやってる移動中にいきなり黒塗りのワゴン車の中に引きずり込まれ、気がついたらこんな状況だったというわけだ。
同じ中学生であり同じく誘拐された身同士と言うことでケンジとヒロㇱは意気投合した。状況は相変わらず絶望的ではあるのだが、二人はなんだか希望が湧いてきたような気になった。
「しかし腹減ったなあ、くそ、あいつら飯ぐらいよこせってんだ!」
さすがは食い意地の塊のヒロシである。こんな状況でも食欲は全く衰えない。ケンジはそんなヒロシのことを少し頼もしく思った。
その時、天井がゴーという音を立てて開きだした。吹き抜けになった先に先ほどの男たちが見える。その中の一人が拡声器を使って話し出した。
「いいか~?お前ら、よく聞けよ。いまお前らはこの部屋の中に全部で100人いる。これから50の弁当箱を投げ込む。欲しかったら隣にいる奴をぶっ殺して奪い取るんだなあ~ゲヒャひゃひゃひゃあ!」
と、男が言うやいなや上空から弁当箱が降ってきた。と同時に、その弁当箱を奪い合ってケンジの周囲で熾烈な争いが巻き起こった。ある者は目玉を潰され、またある者は指を噛み千切られている。まさに地獄絵図であった。
ケンジとヒロシのそばにも弁当箱が落ちてきた。その瞬間、ヒロシの目つきが豹変した!
「ま、待て…別に争わないでも半分こすれば…」
グヴォワーー!
ケンジの言葉など全く耳に届かぬ様子でヒロシは妙な雄叫びをあげてケンジに襲い掛かった。食い意地モンスターであるヒロシは食い物のことともなるとリミッターが外れる。人間離れした力を発揮してケンジの首を両手で絞めつつそのまま壁まで押し込んでいった!
ガツン!
ケンジは後頭部を強烈に壁に打ち付けられた。もはや立っていることはできず壁際に倒れる形になる。ヒロシはケンジに馬乗りになってなおも両手で首を締めあげる。
「俺は…死ぬのか?」
そんな思いがケンジの頭をよぎったときだった、ケンジは自分の右手がヒロシの股間に届いていることに気づいた。
ブチッ!
確かに手ごたえがあった。力任せに握り込んだ手は確実にヒロシの睾丸を潰したのだ。
ヒロシの両手の力が抜けた、見るとヒロシは口から泡を吹いて白目になっている。チャンスだ!
ケンジはヒロシの体を突き飛ばすと馬乗りから脱出した。倒れ込むヒロシ。その顔面をケンジは賽銭泥棒で鍛えた脚力で思い切り蹴り上げた。
グキン!
ヒロシの首がおかしな方向に捻じ曲がる。ヒロシはバタバタと痙攣した後変ないびきをかきだし、やがてそのまま…動かなくなった。
ケンジはそばに落ちていた弁当箱を拾って開けてみた。スーパーで売っているような弁当の容器が出てきた。蓋には「幕の内弁当 480円」のラベルが張ってある。タイムセールスだったのだろうか?20%引きのシールが張られていた。
ふと周りを見渡すと、周囲の争いもどうやら終了したらしい。半数の者は座り込んで弁当を食べていたが半数の者は倒れたまま動いていない。どうやら皆死んでしまったらしい。
ケンジは涙を流しながら震える手で弁当を食べた。殺す気はなかった、決して殺したくはなかった。しかし極限状態においては人の思いなど簡単に吹き飛んでしまう。殺さなければ自分が殺されていたのだ。
「ぐぎゃふぁーははは!どうやら半分死んじまったようだなあ。いいか~おまえら?明日はまた半分の弁当箱を投げ入れる。その次の日はさらにまた半分だあ、最後に残った奴だけ生かしてやる」
狂っている。なぜ奴らはこんなことをするのか?奴らの目的はなんなんだ?
ケンジの心に暗い憎しみの炎が灯った。
(続く)
オリジナル小説
八極地獄拳
―――もう一つのケンジ―――
第一話 極悪非道!謎の組織
キキ――ッ
甲高いブレーキ音とともに大型トラックが施設の前に到着した。
ここは中国の内陸部、詳しい場所は分からないが周りは見渡す限り砂漠である。
「よし、入れ」
門衛のチェックが終わると巨大な扉がゴオオという音をたてながら開かれていった。
トラックはその中へとゆっくりと入っていく。
そのまま進んでいくと広大な中庭へ出て、トラックはそこで停車した。正面には要塞のようにそびえる建物が見える。左右には倉庫らしきもの、そして見張り台がある。
トラックの周りに数名の男たちが駆け寄ってきた。皆軍服のような制服に身を包んでいる。
「ようし出て来い」
男たちの一人が荷台の扉を開けた。中には大勢の子供たちがいた、それも皆少年たちだ。
「とっとと出てこねえか!出たらそこに並べ」
男たちの怒声が響く。少年たちは皆一様に怯えた表情だ。自分たちがなぜこんな目に合わなければいけないのか皆目見当もつかないという顔をしている。
「いいか?今日からお前らはここで暮らすことになるんだ。お前らは皆親に捨てられたか、もしくは二束三文で売られた奴らばかりだ。本来だったらゴミとなんの変りもねえんだがそれを俺たちが引き取って面倒見てやろうというんだ、ありがたく思え」
ここに集められた少年の多くは、親に捨てられたり売られたりしたものばかりだった。それだけでなく紛争で親を失ったもの、普通の暮らしをしていたのに誘拐され売られたものまでも混じっている。
そういった少年たちの中にケンジはいた。
彼の名は竹畑賢治、この物語の主人公のケンジである。
「くそ、どこなんだよここ?なんで俺がこんな目に?」
ケンジは途方に暮れていた。
ケンジは中学生である、しかし頭の方はあまりよろしくはなく分数の足し算ができない。かろうじて九九は覚えているので運が良ければ分数の掛け算には正解することもある。しかし通分というものができないので分数の足し算や引き算は壊滅的だった。
スポーツもそれほど得意というわけではないが、なぜかマラソンだけは速かった。小遣い欲しさに神社を見つけては賽銭泥棒を繰り返していたので逃げ足だけは鍛えられていたのだろう。
その日もケンジは隣のさらにその隣の町までくりだして賽銭泥棒を働いていた。
賽銭をちょろまかしてダッシュで逃げるケンジの横に黒塗りのワゴン車がつき、ケンジを車内に引きずり込んだ。そこでケンジの記憶は途切れたのである。
気がつけばトラックの中、そして今はこんな状況だというわけだ。
「よし移動するぞ、もたもたすんじゃねえ!とっとと歩きやがれ!」
ケンジたちは正面の巨大な建物の中へと歩かされていった。中はまるで刑務所のようである。非常に頑健そうなつくりだった。そのまま地下へと移動させられる。そこは学校の体育館ぐらいの広さがある部屋だった。
ガシャン
ケンジたちが全員入りきったところで入り口に分厚い鉄格子が下りてきた。
閉じ込められたのである。もう誰も逃げられない。
いったいこれからどうなってしまうのか?不安で気が気でないケンジだったが、その時隣にいた少年がケンジに声をかけてきた。
「そんな心配するなよ、大丈夫!逃げられるチャンスは必ずあるって。」
そんな言葉は慰めにもならないよ、とケンジは思った。しかし不安の絶頂の中にあったケンジにとってやはり優しい言葉はいくらか気が晴れるものであった。たとえわずかな希望であろうと今は信じて耐えるしかない。
声をかけてきた少年の名はヒロシ、彼もまた誘拐されてここに連れてこられたとのことだった。ヒロシは中学生で少し太めの体形をしている。食べることに異様な執念を燃やす彼は誘拐された日もスーパーというスーパーを渡り歩いては試食コーナーで試食品を食い漁っていた。そんなことをやってる移動中にいきなり黒塗りのワゴン車の中に引きずり込まれ、気がついたらこんな状況だったというわけだ。
同じ中学生であり同じく誘拐された身同士と言うことでケンジとヒロㇱは意気投合した。状況は相変わらず絶望的ではあるのだが、二人はなんだか希望が湧いてきたような気になった。
「しかし腹減ったなあ、くそ、あいつら飯ぐらいよこせってんだ!」
さすがは食い意地の塊のヒロシである。こんな状況でも食欲は全く衰えない。ケンジはそんなヒロシのことを少し頼もしく思った。
その時、天井がゴーという音を立てて開きだした。吹き抜けになった先に先ほどの男たちが見える。その中の一人が拡声器を使って話し出した。
「いいか~?お前ら、よく聞けよ。いまお前らはこの部屋の中に全部で100人いる。これから50の弁当箱を投げ込む。欲しかったら隣にいる奴をぶっ殺して奪い取るんだなあ~ゲヒャひゃひゃひゃあ!」
と、男が言うやいなや上空から弁当箱が降ってきた。と同時に、その弁当箱を奪い合ってケンジの周囲で熾烈な争いが巻き起こった。ある者は目玉を潰され、またある者は指を噛み千切られている。まさに地獄絵図であった。
ケンジとヒロシのそばにも弁当箱が落ちてきた。その瞬間、ヒロシの目つきが豹変した!
「ま、待て…別に争わないでも半分こすれば…」
グヴォワーー!
ケンジの言葉など全く耳に届かぬ様子でヒロシは妙な雄叫びをあげてケンジに襲い掛かった。食い意地モンスターであるヒロシは食い物のことともなるとリミッターが外れる。人間離れした力を発揮してケンジの首を両手で絞めつつそのまま壁まで押し込んでいった!
ガツン!
ケンジは後頭部を強烈に壁に打ち付けられた。もはや立っていることはできず壁際に倒れる形になる。ヒロシはケンジに馬乗りになってなおも両手で首を締めあげる。
「俺は…死ぬのか?」
そんな思いがケンジの頭をよぎったときだった、ケンジは自分の右手がヒロシの股間に届いていることに気づいた。
ブチッ!
確かに手ごたえがあった。力任せに握り込んだ手は確実にヒロシの睾丸を潰したのだ。
ヒロシの両手の力が抜けた、見るとヒロシは口から泡を吹いて白目になっている。チャンスだ!
ケンジはヒロシの体を突き飛ばすと馬乗りから脱出した。倒れ込むヒロシ。その顔面をケンジは賽銭泥棒で鍛えた脚力で思い切り蹴り上げた。
グキン!
ヒロシの首がおかしな方向に捻じ曲がる。ヒロシはバタバタと痙攣した後変ないびきをかきだし、やがてそのまま…動かなくなった。
ケンジはそばに落ちていた弁当箱を拾って開けてみた。スーパーで売っているような弁当の容器が出てきた。蓋には「幕の内弁当 480円」のラベルが張ってある。タイムセールスだったのだろうか?20%引きのシールが張られていた。
ふと周りを見渡すと、周囲の争いもどうやら終了したらしい。半数の者は座り込んで弁当を食べていたが半数の者は倒れたまま動いていない。どうやら皆死んでしまったらしい。
ケンジは涙を流しながら震える手で弁当を食べた。殺す気はなかった、決して殺したくはなかった。しかし極限状態においては人の思いなど簡単に吹き飛んでしまう。殺さなければ自分が殺されていたのだ。
「ぐぎゃふぁーははは!どうやら半分死んじまったようだなあ。いいか~おまえら?明日はまた半分の弁当箱を投げ入れる。その次の日はさらにまた半分だあ、最後に残った奴だけ生かしてやる」
狂っている。なぜ奴らはこんなことをするのか?奴らの目的はなんなんだ?
ケンジの心に暗い憎しみの炎が灯った。
(続く)
馬賢達老師が著された中国短兵の和訳です。今回は技術と戦術について大変深い内容が書かれています。今回も原文を載せておきますので、興味のある方はそちらの方に当たってみてください。


技術と戦術
技術とは深い教養である。短兵格闘において必要とされる手、眼、身法、歩、進攻、防守などの招法(実戦技)は、技術の列に加わらないものは一つもない。技術は戦術の基礎であり、戦術は技術の魂である。戦術の実施は技術を行う上での保証であり、正確で熟達した技術が無ければ戦術はただの空中楼閣にすぎず、巧妙で魂の入った打法を組むことはできない。反対に、正確で熟達した技術を備えていても、技術の中に戦術の意識が欠けていれば、それは魂のない技術である。このような技術でも相手が弱ければそれなりに威力を発揮するが、相手が互角、もしくは戦術変化に優れたものであるならば、必ず勝利の方法を探さねばならない。技術訓練の過程においては、手を挙げ歩を起こすという始まりから戦術の含意が注入されているのだ。とりわけ一部の技術の進歩の過程において技術と戦術は同時に進んでいく。中国民間の伝統的な品位の説法に照らし合わせてみると、技術とは「会、好、対、妙、絶」の五つのレベルに分けられる。このような分け方は、ちょっと俗気があるように見えるが、まじめに技術を磨くにはとても道理があるものだ。例えば、ある一つの技を修練することは“学会了”(学んで出来るようになった)ではあるが、必ずしも“学対了”(学んで正しく出来るようになった)とは限らない。“会”と“対”の間には差異がある。“対”は必ずしも“做得好”(上手く出来ている)とは限らない。“対”と“好”、“好”と“妙”、“妙”と“絶”の間には皆、不同の差異が存在する。いわゆる“絶活”とは、同様の技術ではあっても「絶対なる一」の境地に達したもののことを言うのである。もちろん、我々は技術程度の品位を論じているのではなく、技術進歩の階段を上るときには必ず、この魂ともいえる戦術を注入しろと言っているのである。これにより技術は“対”から“好”の段階へと高まり、さらに高次のレベルにも到達できるのである。決して、ある一つの技術訓練が完全に成し遂げられてから再び戦術を講じたり、技術と戦術を分けて訓練するなどということをしてはいけない。これは間違いなく技術が上達するまでの時間を遅らせ、技術への理解を妨げるからである。どのような技術であろうと、すなわち刺す、劈く、点く、挑むなど、その用法についての其の一を知るだけでなく、其の二、其の三、更に其の“なぜ?”までも知る必要がある。進攻の招法についてはこのようなものであり、防守の招法についてもまた然りである。一歩一式(技の形)ばかりか、体勢の変化に至るまで、みな其の一、其の二、其の三および“なぜ?”を明らかにしなければならない。このような取り組み方をする指導者や習練者が、優れた競技者、あるいは優れた指導者になれるのである。
具体的に述べよう、例えば「刺す」という技において、訓練においては「刺す」で相手を攻撃して、実に会えばどうするか?虚に会えばどうするか?をはっきりさせなければならない。おおよそこの種のことは皆、訓練の系列に存在しなければならず、更には各種の状況の変化の中で実施されなければならない。並びに相応の訓練手段、訓練方法を設計し、訓練の効果を検証しなければならない。単順に技術操法を追求し、盲目的に打ち合いを行い、あるいはムキになって実力を知ろうとすることは、決して賢明な判断とは言えない。短兵競技とは高度知能型の対抗性運動を具現化したものなのだ。その生命力と存在価値は、内蔵される深遠な剣芸技巧と理念にこそあるのだ。ゆえに多数の短兵愛好者、中国剣法愛好者たちよ、その深奥な剣理と剣法をしっかりと見定めよ。


技術と戦術
技術とは深い教養である。短兵格闘において必要とされる手、眼、身法、歩、進攻、防守などの招法(実戦技)は、技術の列に加わらないものは一つもない。技術は戦術の基礎であり、戦術は技術の魂である。戦術の実施は技術を行う上での保証であり、正確で熟達した技術が無ければ戦術はただの空中楼閣にすぎず、巧妙で魂の入った打法を組むことはできない。反対に、正確で熟達した技術を備えていても、技術の中に戦術の意識が欠けていれば、それは魂のない技術である。このような技術でも相手が弱ければそれなりに威力を発揮するが、相手が互角、もしくは戦術変化に優れたものであるならば、必ず勝利の方法を探さねばならない。技術訓練の過程においては、手を挙げ歩を起こすという始まりから戦術の含意が注入されているのだ。とりわけ一部の技術の進歩の過程において技術と戦術は同時に進んでいく。中国民間の伝統的な品位の説法に照らし合わせてみると、技術とは「会、好、対、妙、絶」の五つのレベルに分けられる。このような分け方は、ちょっと俗気があるように見えるが、まじめに技術を磨くにはとても道理があるものだ。例えば、ある一つの技を修練することは“学会了”(学んで出来るようになった)ではあるが、必ずしも“学対了”(学んで正しく出来るようになった)とは限らない。“会”と“対”の間には差異がある。“対”は必ずしも“做得好”(上手く出来ている)とは限らない。“対”と“好”、“好”と“妙”、“妙”と“絶”の間には皆、不同の差異が存在する。いわゆる“絶活”とは、同様の技術ではあっても「絶対なる一」の境地に達したもののことを言うのである。もちろん、我々は技術程度の品位を論じているのではなく、技術進歩の階段を上るときには必ず、この魂ともいえる戦術を注入しろと言っているのである。これにより技術は“対”から“好”の段階へと高まり、さらに高次のレベルにも到達できるのである。決して、ある一つの技術訓練が完全に成し遂げられてから再び戦術を講じたり、技術と戦術を分けて訓練するなどということをしてはいけない。これは間違いなく技術が上達するまでの時間を遅らせ、技術への理解を妨げるからである。どのような技術であろうと、すなわち刺す、劈く、点く、挑むなど、その用法についての其の一を知るだけでなく、其の二、其の三、更に其の“なぜ?”までも知る必要がある。進攻の招法についてはこのようなものであり、防守の招法についてもまた然りである。一歩一式(技の形)ばかりか、体勢の変化に至るまで、みな其の一、其の二、其の三および“なぜ?”を明らかにしなければならない。このような取り組み方をする指導者や習練者が、優れた競技者、あるいは優れた指導者になれるのである。
具体的に述べよう、例えば「刺す」という技において、訓練においては「刺す」で相手を攻撃して、実に会えばどうするか?虚に会えばどうするか?をはっきりさせなければならない。おおよそこの種のことは皆、訓練の系列に存在しなければならず、更には各種の状況の変化の中で実施されなければならない。並びに相応の訓練手段、訓練方法を設計し、訓練の効果を検証しなければならない。単順に技術操法を追求し、盲目的に打ち合いを行い、あるいはムキになって実力を知ろうとすることは、決して賢明な判断とは言えない。短兵競技とは高度知能型の対抗性運動を具現化したものなのだ。その生命力と存在価値は、内蔵される深遠な剣芸技巧と理念にこそあるのだ。ゆえに多数の短兵愛好者、中国剣法愛好者たちよ、その深奥な剣理と剣法をしっかりと見定めよ。
新年好!
2019年がスタートしたことで当会も2年目に突入です。
今年も当会の方針は変わりません。
すなわち武術独自の技術体系を生かせる組手ルールの推進と代表は神棚にはのりません、かかってこい!o(`ω´ )o ということです。
当会は決して無抵抗な相手にしか技をかけられないとか、他格闘競技の真似事でごまかすとかいたしません!
2019年がスタートしたことで当会も2年目に突入です。
今年も当会の方針は変わりません。
すなわち武術独自の技術体系を生かせる組手ルールの推進と代表は神棚にはのりません、かかってこい!o(`ω´ )o ということです。
当会は決して無抵抗な相手にしか技をかけられないとか、他格闘競技の真似事でごまかすとかいたしません!
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