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Author:gongze
FC2ブログへようこそ!
初めまして宮沢雅宏と申します。
中国の西安において馬賢達老師と
田春陽老師より中国伝統武術である
通備拳を学んでまいりました。
このブログには武術に関する理論やエッセイを掲載してまいります。
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発勁という言葉には常に誤解が付きまとっているようです。かつては発勁と言えばよく分からない気だのオーラだのを用いて強大な打撃力を発揮するものと思われていたようですが、さすがに最近はそういったものは減ってきたのではないかと思います。まあもちろんいまだに洗脳カルトみたいなことをやっているところはありますが。さて、発勁についてのオカルト解釈が減った代わりに増えているのが疑似科学解釈ではないかと思います。以前にもツッコんだことのある床を蹴らないというやつや、突きが当たる直前に一瞬引き戻すことで鞭が加速される要領で威力が上がるとか、突きが対象に当たった瞬間にピタリと止めることで威力が浸透するとか、猛スピードで走る車が急ブレーキを踏むと中の運転手が飛び出す要領で威力が上がるとか、もはや疑似科学というよりも小学生の物理からやり直せと言いたくなるような単なる誤解間違い勘違いが溢れかえっているのではないかと思います。ですので、発勁なるものを説明される方達は非常に簡単なものでよいので物理モデルが描けるようになるべきだと思います。
そもそも勁というものは中国武術に特有のものではありません。例えば野球において、力任せに腕力でバットを振っていては良いパフォーマンスは発揮できないでしょう。こういった力任せな力のことを中国武術では単に「力」もしくは「拙力」と呼びます。対して、中心軸を立てて腰のキレでバットを触れれば無駄な力を使わずスムーズなスィングが出来るので良いパフォーマンスが発揮できるでしょう。こういった力のことを中国武術では勁と呼びます。つまり勁とは「精錬された力」のことなのです。この勁を発することが発勁です。よく、膝をどうこうしたり肘をどうこうしたりすると威力が上がると思っている人がいたりしますが、身体が作り出せる運動量には限度があります。発勁とはこの運動量をなるべくロスが無いよう対象に伝える行為でしかないので、威力を上げたければ筋トレをするしかありません。
こう述べるとまたこの筋トレについて勘違いする人が出てきそうですが今回は触れないでおきます。
さて、ここで中国武術の拗歩捶をもちいて物理モデルを描いてみましょう。ここで描くのはごくごく単純なものですが、こんな物でも発勁における確実な部分は説明できます。

まず人体に注目すると力の作用が起こる場所は接地した両足とサンドバッグに当たる手の部分です。ここで後ろ足が地面を蹴る力をf、地面から反作用で返ってくる力をFとします。
そして手からサンドバッグに水平に伝えられる力をF’とします。このF’が大きければ大きいほど、威力のある突きであると言えるわけです。ではこのF’を大きくする為にはどうすればよいでしょうか?
ここでFを水平方向成分と垂直方向成分に分解してみましょう。Fと地面がなす角をθとします。

F’とはFの水平成分なので、つまりFcosθ=F’であることが分かります。突きの威力を上げたければFcosθの値を大きくすればよいわけです。cosは減少関数なので、θの値を小さくすればFcosθは増加することになります。 そこでθよりも小さい角度であるφを使ってFcosφとしましょう。Fcosθ<Fcosφであるので,つまり地面を蹴る力を変えないまま,なるべく腰の位置を低くすれば威力が上がるというわけです。

なぜこんなことを書いたのかというと、発勁がどうのと語る方たちは運動量保存の法則を理解しているのか疑わしい方が多いからです。ものすごい威力の突きが打てたとして、ではその威力のための運動量はどこで生み出されているのか?をきちんと説明するべきです。武術とは学問なので問題意識をもって取り組む姿勢の無い人に武術はできません。
そもそも勁というものは中国武術に特有のものではありません。例えば野球において、力任せに腕力でバットを振っていては良いパフォーマンスは発揮できないでしょう。こういった力任せな力のことを中国武術では単に「力」もしくは「拙力」と呼びます。対して、中心軸を立てて腰のキレでバットを触れれば無駄な力を使わずスムーズなスィングが出来るので良いパフォーマンスが発揮できるでしょう。こういった力のことを中国武術では勁と呼びます。つまり勁とは「精錬された力」のことなのです。この勁を発することが発勁です。よく、膝をどうこうしたり肘をどうこうしたりすると威力が上がると思っている人がいたりしますが、身体が作り出せる運動量には限度があります。発勁とはこの運動量をなるべくロスが無いよう対象に伝える行為でしかないので、威力を上げたければ筋トレをするしかありません。
こう述べるとまたこの筋トレについて勘違いする人が出てきそうですが今回は触れないでおきます。
さて、ここで中国武術の拗歩捶をもちいて物理モデルを描いてみましょう。ここで描くのはごくごく単純なものですが、こんな物でも発勁における確実な部分は説明できます。

まず人体に注目すると力の作用が起こる場所は接地した両足とサンドバッグに当たる手の部分です。ここで後ろ足が地面を蹴る力をf、地面から反作用で返ってくる力をFとします。
そして手からサンドバッグに水平に伝えられる力をF’とします。このF’が大きければ大きいほど、威力のある突きであると言えるわけです。ではこのF’を大きくする為にはどうすればよいでしょうか?
ここでFを水平方向成分と垂直方向成分に分解してみましょう。Fと地面がなす角をθとします。

F’とはFの水平成分なので、つまりFcosθ=F’であることが分かります。突きの威力を上げたければFcosθの値を大きくすればよいわけです。cosは減少関数なので、θの値を小さくすればFcosθは増加することになります。 そこでθよりも小さい角度であるφを使ってFcosφとしましょう。Fcosθ<Fcosφであるので,つまり地面を蹴る力を変えないまま,なるべく腰の位置を低くすれば威力が上がるというわけです。

なぜこんなことを書いたのかというと、発勁がどうのと語る方たちは運動量保存の法則を理解しているのか疑わしい方が多いからです。ものすごい威力の突きが打てたとして、ではその威力のための運動量はどこで生み出されているのか?をきちんと説明するべきです。武術とは学問なので問題意識をもって取り組む姿勢の無い人に武術はできません。
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中国武術におけるいわゆる組手にあたる部分を散手,または散打と呼ぶわけですが,この散打について現在の中国では武術とはあまり関係のない一つの競技として確立されているという印象を受けます。かつては日本でも武術の技を何とか競技化しようとして様々なルールが考案されて大会が開かれたりしてきたわけですが,そうした大会ルールにあわせた動きをしようとするとどうしても本来自分がやっている武術というジャンルの動きからかけ離れたものになってしまい,率直に言ってしまえばどれもこれも失敗していたと言えるでしょう。ところで,私はそういった散打競技を見ていて常々疑問に思っていることがあります。それはなぜ回し蹴りを禁止にしないのかということです。私が知っている限りどの散打大会のルールでも回し蹴りは認められていたと思います。
もし中国武術をやられている方がこの記事を読んでいるのならば,ぜひご自分のやられている門派の套路を確認してみてください。回し蹴りはほとんどないはずです。たま~に里合腿のような蹴りは出てきますが,ごくまれなことです。ではなぜ中国武術にはほとんど回し蹴りがないのでしょうか?
まず試合を考えてみましょう。大抵の場合,試合は裸足で行います。そして金的蹴りや関節蹴りなどの危険な技は禁止されています。対して中国武術の闘いは靴を履いていることが想定されています。また,金的蹴りや関節蹴りなどの危険な技も禁止されてはいません。回し蹴りというものは裸足で,かつ金的攻撃などが禁止されている試合においては非常に有効な技ですが,蹴るときに体の中心を相手にさらしてしまうので金的蹴りの餌食になりやすいです。また靴を履いていると足の爪先を武器として使用できるようになりますので,回し蹴りのように外側を回るような足の軌道で蹴るよりも直線的に爪先で蹴るほうがより速く強力な蹴りを繰り出すことができます。さらに自分が回し蹴りを放ったとして当たった瞬間の相手と自分の位置関係は,相手が手を伸ばせばこちらの衣服などを掴める状態になっています。衣服を掴まれて頭突きなどを食らうと非常に危険です。以上のような理由から中国武術では回し蹴りはほとんど使われない,たまに奇襲技として出てくる程度なのですが,これが散打競技となるとなぜか回し蹴りがメインウェポンとして活躍してしまっているわけです。ですから,武術の技を何とか競技化したいと考えるのであれば少なくとも回し蹴りは禁止しなきゃダメというわけです。かつて私が馬賢達先生に散手を習った時も回し蹴りの使用は厳しく禁じられました。やはり真の名人ともなるとそういったことは分かっているものなのですね。ただ,回し蹴りを蹴らないことと出来ないことは違う ということはよく踏まえておくべきです。
もし中国武術をやられている方がこの記事を読んでいるのならば,ぜひご自分のやられている門派の套路を確認してみてください。回し蹴りはほとんどないはずです。たま~に里合腿のような蹴りは出てきますが,ごくまれなことです。ではなぜ中国武術にはほとんど回し蹴りがないのでしょうか?
まず試合を考えてみましょう。大抵の場合,試合は裸足で行います。そして金的蹴りや関節蹴りなどの危険な技は禁止されています。対して中国武術の闘いは靴を履いていることが想定されています。また,金的蹴りや関節蹴りなどの危険な技も禁止されてはいません。回し蹴りというものは裸足で,かつ金的攻撃などが禁止されている試合においては非常に有効な技ですが,蹴るときに体の中心を相手にさらしてしまうので金的蹴りの餌食になりやすいです。また靴を履いていると足の爪先を武器として使用できるようになりますので,回し蹴りのように外側を回るような足の軌道で蹴るよりも直線的に爪先で蹴るほうがより速く強力な蹴りを繰り出すことができます。さらに自分が回し蹴りを放ったとして当たった瞬間の相手と自分の位置関係は,相手が手を伸ばせばこちらの衣服などを掴める状態になっています。衣服を掴まれて頭突きなどを食らうと非常に危険です。以上のような理由から中国武術では回し蹴りはほとんど使われない,たまに奇襲技として出てくる程度なのですが,これが散打競技となるとなぜか回し蹴りがメインウェポンとして活躍してしまっているわけです。ですから,武術の技を何とか競技化したいと考えるのであれば少なくとも回し蹴りは禁止しなきゃダメというわけです。かつて私が馬賢達先生に散手を習った時も回し蹴りの使用は厳しく禁じられました。やはり真の名人ともなるとそういったことは分かっているものなのですね。ただ,回し蹴りを蹴らないことと出来ないことは違う ということはよく踏まえておくべきです。
「詰まるところ,私はむしろ勇敢,技巧,力量と智恵を格闘の要素とする試合が見たいのであり,ある種の奥深く,捉えがたい空論をもてあそぶ話などは聞きたくないのである。」
以上は松田隆智 野上小達 著 中国伝統開門八極拳のP189にある馬明達先生の論文より引用しました。
組手とか乱捕りとかをしないジャンルである武術(中国武術とは限らず日本や東南アジアなども含めて)にはよくこんなことがあります。雑誌などでよく紹介される有名な先生が型を演じて,それがyoutubeにアップされたとしましょう。
するとコメント欄にはこんな感じのコメントがついたりすることが多いです。「いや~さすが○○先生,見事に~拳の風格である~が表現されている。しかしまさかこのような演武で秘訣である~まで見せてしまうとは,私のようにこの重大さが分かるものはそうはいないとはいえ,ずいぶん思い切ったことをされたものですなあ」といった感じのいかにも達人同士にしか分からない感じの話を思わせるものです。対して,全く無名な人が同じ型を演じてyoutubeにアップすると「これはまだ修行が足りないなあ,もっと基本を練って~を~にしなきゃあ駄目だよ」みたいな感じのコメントが入れられたりします。まあはっきり言って,型の評価なんてものは見る人によって変わるわけです。そして見る人に見る目があるかなどという保証はどこにもないわけです。それどころかよく分からない匿名の人による評価など,単やる先入観や思い込みというパターンのほうがかなり多いでしょう。先に挙げた有名な先生と無名な人を実際に戦わせたら,無名な人のほうが圧勝するなどということは十分あり得ることです。
つまり何が言いたいかというと,もはや型だけやって思わせぶりな秘訣だの要訣だの真の実戦がどうのだとか言ってる時代は終わっているということです。どんなに上手に型を演じられたところで,決まった順序や状況設定の下でしか再現できないのならばそれは無意味でしょう。そんなことよりも お約束抜きのアドリブで実際に技を使っているところを見せてほしい わけです。いまや動画で個人が情報発信できる時代です。ある種の奥深く,捉えがたい空論を一万回述べるよりも,一回の組手動画をyoutubeにアップするほうがはるかに価値があります。「型には古代の人たちのありがたい知恵が詰まって云々」言ってるだけではもうだめですよ。これまでの武術がインチキ,カルト,ポンコツ評論家を生み出す温床になってきたことを反省し,今後の武術は私が提唱するように,自分がやっているジャンルの技術体系を壊さない組み手ルールが当然となっていってほしいと願います。
以上は松田隆智 野上小達 著 中国伝統開門八極拳のP189にある馬明達先生の論文より引用しました。
組手とか乱捕りとかをしないジャンルである武術(中国武術とは限らず日本や東南アジアなども含めて)にはよくこんなことがあります。雑誌などでよく紹介される有名な先生が型を演じて,それがyoutubeにアップされたとしましょう。
するとコメント欄にはこんな感じのコメントがついたりすることが多いです。「いや~さすが○○先生,見事に~拳の風格である~が表現されている。しかしまさかこのような演武で秘訣である~まで見せてしまうとは,私のようにこの重大さが分かるものはそうはいないとはいえ,ずいぶん思い切ったことをされたものですなあ」といった感じのいかにも達人同士にしか分からない感じの話を思わせるものです。対して,全く無名な人が同じ型を演じてyoutubeにアップすると「これはまだ修行が足りないなあ,もっと基本を練って~を~にしなきゃあ駄目だよ」みたいな感じのコメントが入れられたりします。まあはっきり言って,型の評価なんてものは見る人によって変わるわけです。そして見る人に見る目があるかなどという保証はどこにもないわけです。それどころかよく分からない匿名の人による評価など,単やる先入観や思い込みというパターンのほうがかなり多いでしょう。先に挙げた有名な先生と無名な人を実際に戦わせたら,無名な人のほうが圧勝するなどということは十分あり得ることです。
つまり何が言いたいかというと,もはや型だけやって思わせぶりな秘訣だの要訣だの真の実戦がどうのだとか言ってる時代は終わっているということです。どんなに上手に型を演じられたところで,決まった順序や状況設定の下でしか再現できないのならばそれは無意味でしょう。そんなことよりも お約束抜きのアドリブで実際に技を使っているところを見せてほしい わけです。いまや動画で個人が情報発信できる時代です。ある種の奥深く,捉えがたい空論を一万回述べるよりも,一回の組手動画をyoutubeにアップするほうがはるかに価値があります。「型には古代の人たちのありがたい知恵が詰まって云々」言ってるだけではもうだめですよ。これまでの武術がインチキ,カルト,ポンコツ評論家を生み出す温床になってきたことを反省し,今後の武術は私が提唱するように,自分がやっているジャンルの技術体系を壊さない組み手ルールが当然となっていってほしいと願います。
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