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Author:gongze
FC2ブログへようこそ!
初めまして宮沢雅宏と申します。
中国の西安において馬賢達老師と
田春陽老師より中国伝統武術である
通備拳を学んでまいりました。
このブログには武術に関する理論やエッセイを掲載してまいります。
本格中国武術教室通備拳斬卸会、現在会員募集中です!
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馬賢達老師が著された中国短兵の和訳です。今回は技術と戦術について大変深い内容が書かれています。今回も原文を載せておきますので、興味のある方はそちらの方に当たってみてください。


技術と戦術
技術とは深い教養である。短兵格闘において必要とされる手、眼、身法、歩、進攻、防守などの招法(実戦技)は、技術の列に加わらないものは一つもない。技術は戦術の基礎であり、戦術は技術の魂である。戦術の実施は技術を行う上での保証であり、正確で熟達した技術が無ければ戦術はただの空中楼閣にすぎず、巧妙で魂の入った打法を組むことはできない。反対に、正確で熟達した技術を備えていても、技術の中に戦術の意識が欠けていれば、それは魂のない技術である。このような技術でも相手が弱ければそれなりに威力を発揮するが、相手が互角、もしくは戦術変化に優れたものであるならば、必ず勝利の方法を探さねばならない。技術訓練の過程においては、手を挙げ歩を起こすという始まりから戦術の含意が注入されているのだ。とりわけ一部の技術の進歩の過程において技術と戦術は同時に進んでいく。中国民間の伝統的な品位の説法に照らし合わせてみると、技術とは「会、好、対、妙、絶」の五つのレベルに分けられる。このような分け方は、ちょっと俗気があるように見えるが、まじめに技術を磨くにはとても道理があるものだ。例えば、ある一つの技を修練することは“学会了”(学んで出来るようになった)ではあるが、必ずしも“学対了”(学んで正しく出来るようになった)とは限らない。“会”と“対”の間には差異がある。“対”は必ずしも“做得好”(上手く出来ている)とは限らない。“対”と“好”、“好”と“妙”、“妙”と“絶”の間には皆、不同の差異が存在する。いわゆる“絶活”とは、同様の技術ではあっても「絶対なる一」の境地に達したもののことを言うのである。もちろん、我々は技術程度の品位を論じているのではなく、技術進歩の階段を上るときには必ず、この魂ともいえる戦術を注入しろと言っているのである。これにより技術は“対”から“好”の段階へと高まり、さらに高次のレベルにも到達できるのである。決して、ある一つの技術訓練が完全に成し遂げられてから再び戦術を講じたり、技術と戦術を分けて訓練するなどということをしてはいけない。これは間違いなく技術が上達するまでの時間を遅らせ、技術への理解を妨げるからである。どのような技術であろうと、すなわち刺す、劈く、点く、挑むなど、その用法についての其の一を知るだけでなく、其の二、其の三、更に其の“なぜ?”までも知る必要がある。進攻の招法についてはこのようなものであり、防守の招法についてもまた然りである。一歩一式(技の形)ばかりか、体勢の変化に至るまで、みな其の一、其の二、其の三および“なぜ?”を明らかにしなければならない。このような取り組み方をする指導者や習練者が、優れた競技者、あるいは優れた指導者になれるのである。
具体的に述べよう、例えば「刺す」という技において、訓練においては「刺す」で相手を攻撃して、実に会えばどうするか?虚に会えばどうするか?をはっきりさせなければならない。おおよそこの種のことは皆、訓練の系列に存在しなければならず、更には各種の状況の変化の中で実施されなければならない。並びに相応の訓練手段、訓練方法を設計し、訓練の効果を検証しなければならない。単順に技術操法を追求し、盲目的に打ち合いを行い、あるいはムキになって実力を知ろうとすることは、決して賢明な判断とは言えない。短兵競技とは高度知能型の対抗性運動を具現化したものなのだ。その生命力と存在価値は、内蔵される深遠な剣芸技巧と理念にこそあるのだ。ゆえに多数の短兵愛好者、中国剣法愛好者たちよ、その深奥な剣理と剣法をしっかりと見定めよ。


技術と戦術
技術とは深い教養である。短兵格闘において必要とされる手、眼、身法、歩、進攻、防守などの招法(実戦技)は、技術の列に加わらないものは一つもない。技術は戦術の基礎であり、戦術は技術の魂である。戦術の実施は技術を行う上での保証であり、正確で熟達した技術が無ければ戦術はただの空中楼閣にすぎず、巧妙で魂の入った打法を組むことはできない。反対に、正確で熟達した技術を備えていても、技術の中に戦術の意識が欠けていれば、それは魂のない技術である。このような技術でも相手が弱ければそれなりに威力を発揮するが、相手が互角、もしくは戦術変化に優れたものであるならば、必ず勝利の方法を探さねばならない。技術訓練の過程においては、手を挙げ歩を起こすという始まりから戦術の含意が注入されているのだ。とりわけ一部の技術の進歩の過程において技術と戦術は同時に進んでいく。中国民間の伝統的な品位の説法に照らし合わせてみると、技術とは「会、好、対、妙、絶」の五つのレベルに分けられる。このような分け方は、ちょっと俗気があるように見えるが、まじめに技術を磨くにはとても道理があるものだ。例えば、ある一つの技を修練することは“学会了”(学んで出来るようになった)ではあるが、必ずしも“学対了”(学んで正しく出来るようになった)とは限らない。“会”と“対”の間には差異がある。“対”は必ずしも“做得好”(上手く出来ている)とは限らない。“対”と“好”、“好”と“妙”、“妙”と“絶”の間には皆、不同の差異が存在する。いわゆる“絶活”とは、同様の技術ではあっても「絶対なる一」の境地に達したもののことを言うのである。もちろん、我々は技術程度の品位を論じているのではなく、技術進歩の階段を上るときには必ず、この魂ともいえる戦術を注入しろと言っているのである。これにより技術は“対”から“好”の段階へと高まり、さらに高次のレベルにも到達できるのである。決して、ある一つの技術訓練が完全に成し遂げられてから再び戦術を講じたり、技術と戦術を分けて訓練するなどということをしてはいけない。これは間違いなく技術が上達するまでの時間を遅らせ、技術への理解を妨げるからである。どのような技術であろうと、すなわち刺す、劈く、点く、挑むなど、その用法についての其の一を知るだけでなく、其の二、其の三、更に其の“なぜ?”までも知る必要がある。進攻の招法についてはこのようなものであり、防守の招法についてもまた然りである。一歩一式(技の形)ばかりか、体勢の変化に至るまで、みな其の一、其の二、其の三および“なぜ?”を明らかにしなければならない。このような取り組み方をする指導者や習練者が、優れた競技者、あるいは優れた指導者になれるのである。
具体的に述べよう、例えば「刺す」という技において、訓練においては「刺す」で相手を攻撃して、実に会えばどうするか?虚に会えばどうするか?をはっきりさせなければならない。おおよそこの種のことは皆、訓練の系列に存在しなければならず、更には各種の状況の変化の中で実施されなければならない。並びに相応の訓練手段、訓練方法を設計し、訓練の効果を検証しなければならない。単順に技術操法を追求し、盲目的に打ち合いを行い、あるいはムキになって実力を知ろうとすることは、決して賢明な判断とは言えない。短兵競技とは高度知能型の対抗性運動を具現化したものなのだ。その生命力と存在価値は、内蔵される深遠な剣芸技巧と理念にこそあるのだ。ゆえに多数の短兵愛好者、中国剣法愛好者たちよ、その深奥な剣理と剣法をしっかりと見定めよ。
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