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Author:gongze
FC2ブログへようこそ!
初めまして宮沢雅宏と申します。
中国の西安において馬賢達老師と
田春陽老師より中国伝統武術である
通備拳を学んでまいりました。
このブログには武術に関する理論やエッセイを掲載してまいります。
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現代において武術といえば,形や約束稽古だけやっているまさに形骸化したものがほとんどだと思いますが,もちろんそんなことだけやっていても武術の技が身に付くわけがありません。組手練習で実践してみる必要があります。
さて,今回は古代の武術家達がどのように組手練習をしてきたのかを見ていこうと思います。
春秋戦国時代の頃,製鉄技術の進歩によって長剣が作れるようになりました。干将莫邪夫妻の剣などは有名ですね。これとともに剣術に関する技術も飛躍的に向上したと言われています。この時代の剣の隆盛を象徴するものに撃剣があります。撃剣とは模擬の剣を使って実際に打ち合う競技のことで,漢代には教養科目の一部ともみなされていたようです。つまり模擬剣を使った組手稽古が当時の武術のレベルを引き上げていたというわけです。
ちなみに春秋戦国時代や漢代においては素手の技術というものはあまり重視されていなかったようです。後漢の班固が編集した古今東西の書目録である漢書芸文志に兵技巧の部がありますが,そこに手搏六編という名称があります。手搏とはつまり拳術のことで当時においても素手の技術というものが存在していたということが分かります。しかし,当時の兵書の75%以上が射法に関するものだったようで,手搏はわずか1%ほどの割合しかありませんでした。
ただ,この時代には素手によるタイマンガチバトルである角抵,現代で言うところの相撲という競技も存在しましたが,どうやらこちらは武術とは切り離された格闘ショーであるとみなされていたようです。しかし,この相撲の技術は後々の武術に影響を与えたのではないかと私は考えています。
さて,撃剣で使われた模擬剣はどのような構造をしていたのか?については資料がなく不明です。しかし,越王句践の剣が発見された墓からは木剣も見つかっていたとのこと。そしてこの木剣は明らかに儀仗用などではなく鍛錬用であるとのことです。ということは,古代の人々は普通に木剣で撃ち合っていたのではないか?と思われます。木剣に使われた木がどんな材質かはわかりませんが,昔は安全面に無頓着だったという気はします。
撃剣については三国志にも出てきた魏の皇帝曹丕の故事も有名です。曹丕は自著の中で,「私は撃剣を好み多くの師についた」と述べています。そんな曹丕がある日の酒の席で,格闘武術を得意とするという将軍の郭展と剣術について議論になったようです。その場で二人はサトウキビを剣に見立てて撃剣の試合をしたとのこと。曹丕は三回試合して三回とも郭展の腕を打ったとのことです。思うに「接待撃剣だったんじゃないかな~」という気もしますが,重要なのはサトウキビのように柔らかい素材を使った模擬剣も存在したのではないかと思えるというところです。柔らかい素材だったがゆえに後世まで残らなかった可能性はあると思います。
その後の中国では民族レベルでの王朝交代が何度も起こったせいか,撃剣の記録が途絶えてしまったようです。ということで時代は一気に飛んで明の時代になります。
明の時代におけるキーパーソンは何といっても戚継光でしょう。倭寇撃滅を成し遂げた猛将でありいくつもの武術の技術書を残しています。
戚継光が記した軍事書である「紀効新書」には兵士たちの武芸のレベルを計るための「較芸」についての記述があります。それによると刀や槍といった格闘武器の試験は実際に同種,または異種の武器との試合を行わせていたようです。ルールについての詳細は分かりませんが,おそらく模擬の武器を用いて行っていたと思われます。そして戚継光は素手の技術を重視していたことでも有名で,彼の記した「拳経」は現在の多くの武術流派に対しても影響を与えています。この拳経の序文で戚継光は「素手の技術は戦争ではほとんど役に立たない」と述べています。しかし同時に「拳は武芸の源なり」とも述べているので素手の技術こそが各種の武器の技術に対しての基本になっていると考えていたようです。戚継光は拳経の序文の締めくくりに「芸を身に付けたならば必ず相手に試せ。勝って喜んだり負けて恥じたりなどするな。何が原因で勝てて何が原因で負けたのかをよく研究しろ」と述べています。つまり戚継光も型や約束稽古だけでは技術は身に付かないので実際に試して使い方を覚えろと言っているわけです。ここで疑問に思うのは,相手に試せというからには何かしらの組手的な練習があったのだろうと思われるわけですが,それではその組手ルールはどのようなものであったのか?については拳経のどこにも記載がありません。思うに,あえて書く必要が無かったということなのかもしれません。ということは,特にルールも決めず,安全性など考慮せずに殴りあっていたのかもしれません。考えてみれば格闘技のルールというものは選手の安全を考慮して作られているわけであって,昔の人からすれば武芸の練習で何人かは重篤なケガ人が出てしまうということは結構当たり前のことだったのかもしれません。
最後に,私のやっている通備拳には対抗性を伴った各種の相対練習法が伝わっています。それらの練習は倒しあいというよりも,安全性を考慮した,ポジションをとりあうような練習になっています。残念ながら私にはそれらの練習法がいつから存在していたのかはわかりません。しかしこういった対抗性練習というものは本来はあらゆる門派に備わっていたのではないかと思います。しかしそれらは何らかの原因によって抜け落ちてしまったようです。今となっては失われた練習法を復活させるということは不可能でしょう。しかし武術の技法内容について詳細に分析していけば武術技法を生かせる対抗性練習を新たに創出することは可能です。当会は自流派の技術を生かせる組手ルールをいくつか考案していますが,こうした動きがもっと活発になればよいと思います。
参考文献 笠尾恭二著 中国武術史大観
馬賢達著 中国短兵
さて,今回は古代の武術家達がどのように組手練習をしてきたのかを見ていこうと思います。
春秋戦国時代の頃,製鉄技術の進歩によって長剣が作れるようになりました。干将莫邪夫妻の剣などは有名ですね。これとともに剣術に関する技術も飛躍的に向上したと言われています。この時代の剣の隆盛を象徴するものに撃剣があります。撃剣とは模擬の剣を使って実際に打ち合う競技のことで,漢代には教養科目の一部ともみなされていたようです。つまり模擬剣を使った組手稽古が当時の武術のレベルを引き上げていたというわけです。
ちなみに春秋戦国時代や漢代においては素手の技術というものはあまり重視されていなかったようです。後漢の班固が編集した古今東西の書目録である漢書芸文志に兵技巧の部がありますが,そこに手搏六編という名称があります。手搏とはつまり拳術のことで当時においても素手の技術というものが存在していたということが分かります。しかし,当時の兵書の75%以上が射法に関するものだったようで,手搏はわずか1%ほどの割合しかありませんでした。
ただ,この時代には素手によるタイマンガチバトルである角抵,現代で言うところの相撲という競技も存在しましたが,どうやらこちらは武術とは切り離された格闘ショーであるとみなされていたようです。しかし,この相撲の技術は後々の武術に影響を与えたのではないかと私は考えています。
さて,撃剣で使われた模擬剣はどのような構造をしていたのか?については資料がなく不明です。しかし,越王句践の剣が発見された墓からは木剣も見つかっていたとのこと。そしてこの木剣は明らかに儀仗用などではなく鍛錬用であるとのことです。ということは,古代の人々は普通に木剣で撃ち合っていたのではないか?と思われます。木剣に使われた木がどんな材質かはわかりませんが,昔は安全面に無頓着だったという気はします。
撃剣については三国志にも出てきた魏の皇帝曹丕の故事も有名です。曹丕は自著の中で,「私は撃剣を好み多くの師についた」と述べています。そんな曹丕がある日の酒の席で,格闘武術を得意とするという将軍の郭展と剣術について議論になったようです。その場で二人はサトウキビを剣に見立てて撃剣の試合をしたとのこと。曹丕は三回試合して三回とも郭展の腕を打ったとのことです。思うに「接待撃剣だったんじゃないかな~」という気もしますが,重要なのはサトウキビのように柔らかい素材を使った模擬剣も存在したのではないかと思えるというところです。柔らかい素材だったがゆえに後世まで残らなかった可能性はあると思います。
その後の中国では民族レベルでの王朝交代が何度も起こったせいか,撃剣の記録が途絶えてしまったようです。ということで時代は一気に飛んで明の時代になります。
明の時代におけるキーパーソンは何といっても戚継光でしょう。倭寇撃滅を成し遂げた猛将でありいくつもの武術の技術書を残しています。
戚継光が記した軍事書である「紀効新書」には兵士たちの武芸のレベルを計るための「較芸」についての記述があります。それによると刀や槍といった格闘武器の試験は実際に同種,または異種の武器との試合を行わせていたようです。ルールについての詳細は分かりませんが,おそらく模擬の武器を用いて行っていたと思われます。そして戚継光は素手の技術を重視していたことでも有名で,彼の記した「拳経」は現在の多くの武術流派に対しても影響を与えています。この拳経の序文で戚継光は「素手の技術は戦争ではほとんど役に立たない」と述べています。しかし同時に「拳は武芸の源なり」とも述べているので素手の技術こそが各種の武器の技術に対しての基本になっていると考えていたようです。戚継光は拳経の序文の締めくくりに「芸を身に付けたならば必ず相手に試せ。勝って喜んだり負けて恥じたりなどするな。何が原因で勝てて何が原因で負けたのかをよく研究しろ」と述べています。つまり戚継光も型や約束稽古だけでは技術は身に付かないので実際に試して使い方を覚えろと言っているわけです。ここで疑問に思うのは,相手に試せというからには何かしらの組手的な練習があったのだろうと思われるわけですが,それではその組手ルールはどのようなものであったのか?については拳経のどこにも記載がありません。思うに,あえて書く必要が無かったということなのかもしれません。ということは,特にルールも決めず,安全性など考慮せずに殴りあっていたのかもしれません。考えてみれば格闘技のルールというものは選手の安全を考慮して作られているわけであって,昔の人からすれば武芸の練習で何人かは重篤なケガ人が出てしまうということは結構当たり前のことだったのかもしれません。
最後に,私のやっている通備拳には対抗性を伴った各種の相対練習法が伝わっています。それらの練習は倒しあいというよりも,安全性を考慮した,ポジションをとりあうような練習になっています。残念ながら私にはそれらの練習法がいつから存在していたのかはわかりません。しかしこういった対抗性練習というものは本来はあらゆる門派に備わっていたのではないかと思います。しかしそれらは何らかの原因によって抜け落ちてしまったようです。今となっては失われた練習法を復活させるということは不可能でしょう。しかし武術の技法内容について詳細に分析していけば武術技法を生かせる対抗性練習を新たに創出することは可能です。当会は自流派の技術を生かせる組手ルールをいくつか考案していますが,こうした動きがもっと活発になればよいと思います。
参考文献 笠尾恭二著 中国武術史大観
馬賢達著 中国短兵
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